夜桜の刻
 俺とアンタの記憶の間にある空虚な空間を埋めるための方法は、どこを探せばあるんだろうか?

     *

「宮地さん、俺らが付き合い始めた頃って、覚えてるか?」
 古びた旅館の畳はその色と香りで年月を伝え、壁にある昔ながらの日めくりが日を示す。少し深みのある赤が特徴のアナログ時計の秒針が、大仰に時の刻みを知らせる。時は足早に、過ぎているのだ。今、でも。
「付き合い始めた頃? 確か暑かったよな。夏? あれ夏だったよな?」
 的はずれな彼の言葉に、これ見よがしに苦虫を噛み潰す。あわよくばそれが、彼の目に映り込めば良いと、多少大袈裟に。
 されど俺の存在など初めから無かったかのように、コピーされた新聞のテレビ欄を指で追っている。
「ホントに覚えてねぇの?」
「マコはどーなんだよ、覚えてんの?」
 疑問符はまるで食玩についてくるガムみたいに無意味で、俺は答える事を諦めた。
 付き合い始めてからずっとそうだ。
 二人の仲には比較的無頓着、イベンド事には無関心、ただ何となく、土日ともなればお決まりのコートでストバスをする。その他大勢も含め、賑やかに。
「賑やかなのは苦手だ」
 そう確かに伝えた筈なのに、翌週には「ストバス行くぞ」とドアを叩く。終われば何となく身体を重ね、帰路につく。
 それでも一年、二人の仲が継続していることに、驚いている。

 そもそも、旅行がこの日に決まった事に関しても、彼にとっては何の意味もないのだろう。

     *

「おめでとうございます!」
 ガランガラン、大袈裟な程に響くベルの音と、周囲のざわめきに、俺は縮こまり、宮地さんは両手を挙げて喜んだ。
 熱海一泊二日。4月7日出発。
「確か7日のストバスは大坪が来れなくて、緑間は高尾に勉強を教えるとかで、人が集まらないんだ。いいよな? この日で」
 幾つか設定された日程から選ばれたのが、4月7日だった。そこには何ら深い意味はなく、俺ではない他の誰かの都合によって決定された日程。それでも自分を誘ってくれる事は当たり前でもあり、嬉しい事でもあり、俺はその日取りで了承した。

      *

「宿は古いけど、飯は旨いし風呂も最高だし、言うことなしだな」
 テーブルに足を突っ込んだまま、早々敷かれた布団に大の字になる。宮地さんは少し温まりすぎた上気した頬を、テレビ欄でひらひらと仰いでいる。その風は全く意味のないもので、見かねた俺はテーブルにあったフィルム加工の宿案内を手に、彼の顔のそばに寄った。
「だから長湯すんなって言ったじゃねーか」
 少し曲げた宿案内で、室内の空気を宮地さんの顔に押し付ける。心地よさげに目を細める宮地さんの、肌蹴た浴衣の合わせから、白い身体が覗いている。思わず、生唾を飲み込んだ。
「さっき俺に聞いた話。付き合い始めた頃の話な」
 蜂蜜色が煌めく瞳に視線を落とす。口から紡ぎだされようとする言葉の数々に期待は高まるのだが、一方で悪い予感しかしない。二人は付き合っている、身体の関係にある、その事実の他に、彼は俺との間に何の記憶も記録も残していないだろう。俺は宮地さんの誕生日を祝った事はあっても、俺の誕生日は俺から申し出て、しかも翌日に祝ってもらった。クリスマスは街に出て、「混んでるから帰るぞ」の一言で終わった。彼の考えている事は、バスケ、セックス。そんな程度なのかも知れない。
 それでも好きだから、惚れたから、傍にいる。
「付き合ってる事、秀徳の奴らに内緒にしてたのに、初めて気づいたのって、高尾だったよな」
「あぁ、アイツはよく見てるって思った。まぁ、高校が違う俺が、毎回ストバス来てんだから、気付く奴は気付くんだろうけどな」
 上下にしなる宿案内を指先で止めると、今度は宮地さんがそれを掴み、俺を仰いだ。
「疲れたろ、交代」
 さして暑くもないのだが、ねぎらいの言葉が妙にこそばゆく嬉しくて、乾く眼球の事など気にせず風に身を任せた。
「そういや、あの頃って木村に彼女ができたんだよな、確か」
「あ、そうそう。結局彼女が宮地さんに惚れちゃって、破局したんだよな」
 二人の笑い声が重なる。幸せな時間。それでも俺は、少しの不満を表に出さずして心にはしっかり抱いていた。
「緑間が、男同士が恋愛して何が生まれるんだとか、力説したりな」
「うん、そうだったな」
 心地よかったはずの風が、コンタクトレンズを乾かすだけの役割に変わり、俺は彼の手から宿案内をすっと引き抜いた。
「大坪の家に空き巣が入ったんだよな。んで、あの日は秀徳メンツで大坪んちに泊まったんだよ」
「ふーん」
「そういえば、緑間の誕生日に俺がケーキ買ってったんだけど、電話で急かされて走ったら途中でコケてさ、中身ぐっちゃぐちゃな」
「うん」
 片膝を付き、そこに凭れる。少し伸びすぎた前髪に指を触れると、ぐっと引っ張った。苛立ちは喉元まで迫り上がり、やっとの事で飲み下すが、更に何かを語りたそうな宮地の表情に、僅かながらウンザリする。
「高尾の家でNBAのDVD観てたんだけどよ、木村が持ってきた桃の汁がDVDのジャケに掛かっちまってさ、高尾が激怒したことがあったなぁ」
 飲み下す苛つきにも限界があった。俺は返答する事もままならないまま、ぐっと目を閉じる。何の声も発しなくなった俺に気づいたのか宮地さんは「具合悪いのか」と見当違いな気遣いをする。
「違う」
「じゃぁどうした。眠い?」
「ちげーよ」
 両手で支えながら上半身を起こした宮地さんは、珍しいものでも見るように、俺の顔を覗きこむ。
「どーした、マコ」
「宮地さん、緑間の誕生日は覚えてるのか」
「へ?」
 宙をふらりする視線に誠意なんて言葉は見当たらなくて、きっとこの人は自分が何を言って俺を怒らせているのかなんてこれっぽっちも理解していないんだろうというところに行き当たる。
「秀徳のメンツとの細かい思い出は沢山あるんだな。よく覚えてるんだな」
「何だよ、嫉妬とか見苦しい」
 ふつふつと湧き上がるどす黒い感情に囚われた俺は、支配する嫉妬に従順に、続ける。
「俺との思い出なんてこれっぽっちも覚えてないんだろ。そうやって、いつでも離れられる準備してんだろ」
 すっと寄越された飴色の視線は思いの外強く、あぁ、もう終わりだ、そう理解した。
「仕方ねぇだろ、過ごした時間が長い方が色々覚えんだろうが。お前と過ごした時間なんてあいつらに比べたら短いんだよ」
「時間の問題かよ、そこに密度とか、濃度とか、ないのかよ! 俺とアンタって友達感覚の付き合いかよ!」
「何なんだよ言いたい事があったらはっきり言えよマコ!!」
 しん、それまでが嘘みたいに静まった空間に、秒針が絶え間なく時を刻む。二人の関係が一秒毎に裂けて行く、そんな気がして俺は、座ったままで酷く項垂れた。
「愛されてる実感が、足りねぇんだよ」
「マコ愛してる、って言葉で言われて満足かよ」
 気が狂れそうだ。売り言葉に買い言葉。まさに喧嘩としか言い様がない。愛されたい、誰だってそう思うだろう。それは言葉だけではなく、二人の記念日をずっと覚えていたり、何も言わずともこっそり祝ってくれたり、俺と二人だけ過ごす時間を増やしてくれたり、そんなちっぽけな事からだって愛を感じられる自信がある。でも、それすらも無い現状に、宮地さんが満足している事、それが腹立たしい。
 秒針が、啄む小鳥の如く乾いた音を刻みながら、正円を描いて回る。今日が、終わる。
 何かを取り払うように、両の手を顔に宛がうと強く拭い取った。
「もう、いい。終わりだ。アンタに期待した方が馬鹿だったよ。明日朝早く俺は帰るから」
 別段言い訳もせず、黙りこむ宮地さんを尻目に、俺は部屋の隅に布団をずらそうと、立ち上がる。
 つ、と手の平に絡まる触り慣れた少しか細い指を感じ、思わず視線向けると、宮地さんはもう片方の手を重ね、「待て」と言う。
「何だよ、離せよ」
 然しどこに隠れているのかという程の強い力に引き寄せられ、雪崩れ込むように彼の身体に飛び込んだ。
 慣れ親しんだ、彼の匂い。首筋の少し高い体温。形の良い耳。襟足に伸びる蜂蜜色の艶やかな髪。傷跡。
 安寧を求めて飛び込むはずの彼の胸が、今は違う。別れの、儀式なのか。
 背に回せれた彼の腕に、ぐっと圧が掛かる。苦しいぐらいに抱きしめられて思わず喉が鳴った。
「何すんだよ、離せよ」
「あと15秒だ、黙ってろ」
「な」
「だから黙れ!」
 秒針が時を刻む。一つ動く度に、彼と過ごした日常が、頭に浮かんでは消えていく。ほんの些細な出来事が、俺の中では大きなイベントで、過ごした時間をすべて話せと言われたら、何日がかりでも話せそうなぐらいだ。それ程俺は、アンタに惚れていたんだよ。今だって。

ーチチチチチチ、カチャ、チチチチチチ
「マコ?」
「何だよ」
「俺とお前が初めて手を繋いだ日。初めて恋人として俺の家に来た日。初めて俺の手料理を振る舞った日。初めて一緒に風呂に入った日。初めてお前の身体を愛した日。忘れるワケねーだろ」
 僅かに震え出したと思うと刹那、その振幅は大きくなり、いつの間にその震えは喉へと移る。
「アン、タ、馬鹿、か」
 耳元で零せば、宮地さんは僅かに身体を揺らし、笑った。
 その笑顔が見たくって、宛てがっていた耳を離す。
「マコ、愛してる」
 窓の外の夜桜の如く、薄桃色に色づいた唇を重ねる。何かを確認するように、そっと相手を突いて、絡めとる。
 口を離すと宮地さんは、俺の目尻から流れ出た透明な雫をそっと、唇で受け取った。