VISIBLE
 ふ、と大きな風圧が身体を吹き飛ばすとともに、爆音を耳にした。書類の類がまるで魔法にかかったみたいに空を飛び、容赦なく身体を叩きつける。どさ、と落下したそこには、座り心地なんて考えられていない固めのソファがあって、さして痛みもない。
「桜井?」
 宙に浮いていたものの多くは地面へと落下し、その中には多くの人間が混ざっている。
「桜井?」
 僅かに痛む臀部を擦りながら役所の中を徘徊すると、俺よりも随分と離れた所に、投げ出されたように横たわる桜井の姿を見つける。通くから聞こえる、サイレンの音。随分と大仰な事故に巻き込まれたんだということは、大凡理解ができた。

ーーーーーー

 目覚めたのは真っ白な病室のベッド。家族と、大坪の姿が見えた。
 母親は顔をクシャクシャにしたかと思うと、雪崩れるように俺の足元に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。
 大した外傷はなかったものの、あのサイレンの音以降、気を失っていたらしかった。
 平静が保てない母親を連れ出した父親に代り、ここへ来てからの事を大坪が大まかに説明してくれたお陰で、この先の病室に桜井良がいる事を知った。
「動けるか?」
「ん、大丈夫。てか、どこ怪我してんのか分かんねぇ」
 クスと笑った大坪は、「医者が来たら散歩に行ったとでも言っとくから。早く行ってやれ」なんて言って俺の背を押した。

ーーーーーーー

 いくつかのドアを過ぎ、ネームプレートを確認すれば、白い引き戸を開ける。音もせずに開いたにも関わらず、中に居た面々の視線が一気に向かってくる。
「大丈夫か、もう動けるんか?」
「あぁ、俺はどうって事ない。それより」
 今吉の言葉を振り切るようにして視線を向けた桜井は、まるで俺のことなんて勘定に入れていないみたいに、明後日の方向を向いて、目を瞬かさせている。
「桜井?」
「あのな、宮地。あいつ、普通とちゃうねん」

 目が見えへん。耳も聞こえへん。

 強い衝撃が、脳を揺さぶるように打ち付ける。そんな事があってたまるか。俺はあいつがどんなに耳を悪くしたって聞こえるぐらいの声量で、病室の外へ筒抜けな程の大声で、彼の名を叫んだ。
 つもりだった。
 
 声が、出ない。

「うっそやろ……宮地、ちょ、先生呼んでくるから」
 踵を返して病室を出ていった今吉に呼ばれた医師は、俺を病室へ連れ戻し、何やら色々と質問攻めにされた。実際、殆ど何を言われたのか覚えてないし何を答えたのかというと、何も答えられない状況に陥っていた。声が、出ないのだ。「一過性の、」という言葉だけ拾って解釈すれば、そのうち治るのだろうけれど、目も見えない、耳も聞こえないあいつに、どうにか俺を認識してもらうには、刺激を与えるには、声しかない。振動を、感じてもらえるかもしれないのだ。
 その声を、最悪なタイミングで、奪われてしまった。
「検査の準備をするから、ちょっとここで待ってて」
 そう言った医師が廊下の角を曲がった瞬間、大坪の静止も聞かず、桜井の病室へと走った。

『一過性のものだとは思うけど、暫く声が出ない』
 病室のサイドテーブルに置かれたホワイトボードにそう書いて、桐皇の面々に差し出した。各々が、見たこともない程の驚き様で口をつぐみ、桃井に至ってはポロポロと泣き始めた。
「あんたの事、まだ何も話してないんだ」
 低くよく響く声で言う青峰に俺は一つ首肯し、ホワイトボードに文字を連ねる。
『それでいい。あいつなら、きっと俺の事、分かってくれるって信じてるから』

 ベッドサイドに歩み出て、しゃがみ込む。いつもの桜井良の姿。それなのに、俺が傍にいても俺を見ようとしない。どことなく視線を彷徨わせ、シーツをぎゅっと握っている。
 何で、こんなに近くにいるのに、なぜ気づいてくれない。
 彼のしなやかな両腕を、きついぐらいにぎゅっと握り、身体を揺さぶるけれど、同期して揺れる彼から発せられる言葉は絶望的で。
「誰ですか?」「何ですか?」
 暇さえあれば握っていた俺の手の温もりも、ずっと傍に居た俺の体温も、匂いも、何もかも忘れ去られてしまったのか。記憶は残っていても、感覚の鋭さは削り取られしまっているのか。医学的にそんなことがあるかどうかなんていい。
 とにかく、俺に気づいてもらえなかった事に対する、ありったけの理由が欲しかったんだ。
 言葉を発することを忘れた身体は、言葉を形作ることが出来ないから、言葉の端だけが自らを伝えようと慟哭となって喉の奥をかすかに揺らすだけで、うまく泣けない。ただひたすらに重力に逆らえずに滴り落ちていく涙は、真っ白なリネンに吸い込まれていく。

「宮地さんはどこなんですか! 無事なんですか! 連れてきてください、お願いです!」
 叫びにも似た悲痛な声に、桃井はしゃがみ込み嗚咽を強くし、青峰はずっと窓の外を眺めたまま、こちらに視線を寄越そうとしない。
 立ち上がった今吉が、自らが座っていた丸椅子を指し示す。促されるままそこへ腰を下ろすと、彼は廊下へ出ていった。

 何分、何十分、何時間経過したかわからない。先ほどまで青峰が浴びていた西日はいつの間にか姿を消し、秋を感じさせる少し涼しい風が吹き始めていた。
 席を外していた今吉は、目元を真っ赤にして戻ってきた。
「いやぁ、ブタクサの花粉が酷くてたまらん」
 そう言って笑ってみせるも、同調するものは一人もおらず、俺は目の前にあったティッシュの箱からふわふわの一枚を彼に手渡した。
「目んとこ、濡れてるぞ」
「あ、すまんな」

「あの……」
 遠慮がちに響く桜井の声に、一同が視線を集める。一瞬、風がやんだ、そんな空気だった。
「さっきから、あの、見えるんです」
 す、と振り向いた青峰が、桜井に手を伸ばした刹那、今吉がそれを制した。物言いたげな桜井は、口元を魚みたいにぱくつかせると一つ息を吸い込み、それを吐き出した。
「そこに、いますよね? 宮地さん、そこにいますよね?
 細かく震える細い指先が、確かに俺を向いている。しかし、言葉を発することが出来ない俺は、無意味にもそこで頷くしかない。
「見えるんです。赤い、糸みたいのがそっちに。ボクのここからそっちに」
 一切かち合うことのなかった彼の瞳と俺の瞳は線で結ばれたみたいにぶつかって、これまで幾度愛し合ったってこれ程までに見つめ合った事はないって位に絡まり合う視線を、容易に外すことが出来なかった。外す事なんてできなかったんだ。
 彼の名を、呼んだ。伝わらなくたって、そこで呼ばなければ彼を取り戻せないと思った。
「…らい、さ……らい、……りょう」
 目の前がじんわりと曇って、残像すら危うくなった桜井が、やっと俺をーー
「宮地さん……」
 呼んでくれた。
「やっと……宮地さ……んの声、聴こえた気がする…...生きてる……」
 まるで俺のことをすっかり見ているように向けられる栗色の瞳からは、おおよそ涙という言葉が似つかわしくない程に大粒の涙が流れ出し、安い蛍光灯でさえも美しく反射する。
「これが、俺の手」
 ベッドの横に跪き、彼の手をしっかりと握る。聴こえていないことなんでこの際問題ではない。握った手を離すと、彼の頬を撫でる。
「俺の手はこれぐらい、温かいんだよ。覚えとけよ」
 それからベッドに腰掛けると、半身を起こした彼を強く抱きしめる。
「これが俺の匂い。お前の匂い、何か懐かしい」
 鼻腔をやさしく撫でる彼の香りに、下瞼を涙が覆う。
 それから俺は彼の頬を再び両手で包み込み、いつもより幾分赤みを欠っした唇に自らを重ねる。
「これが、俺の、味。これだけ覚えておけよ」
 醜く歪んだ俺の口元が、彼に見られなくてよかったな、なんて思いながら、彼の胸元で咽び泣いた。

「宮地さん、宮地さん、全部、宮地さん。大好きです」