同じ場所を見てる
 撮影がある日の朝には必ず、白いマスクと女物みたいなレンズの大きなサングラスという出で立ちで、彼は店にやってくる。昨晩急遽、彼からの連絡によって予約が入り、開店前のドアベルが小さく、鳴った。
「うぃっす」
「おはようございます」
 室内に入るとすぐさまサングラスを外す。酷く疲れた目元が逆に、彼の人気ぶりを再認識させる。
 大きな荷物を足元にどさと置くと、型崩れした鞄のポケットから、スマートフォンが滑り出てきた。
「電話、落ちましたよ?」
「あ、さんきゅ」
 拾い上げたスマートフォンを硝子テーブルへ置く。飾りも何もない無骨なそれは、置くなり着信を知らせる軽妙な音楽を奏でた。
「電話、出ないんです?」
「いいよ。雑誌社だからあとで会うし」
 そう言って椅子を引き、ボクの対面に腰を下ろす。
「今日は、どうしますか? なにか制約は?」
「お任せで」
 放り投げるように言葉を発すると宮地さんはマスクも外し、背後に在る屑籠へ飛ばした。
 宮地さんの透けるような白い肌に合い、さらに彼の少しトロンとした目元から見える瞳の色に近い、ハニーゴールドをチョイスすると、少し先端の欠けたブルーのネイルを落とす作業に入った。
「そういや、お前ってさ、ネイルの作業する時マスクしないよな」
 指摘されて初めて、無自覚な習慣にはっとした。
「すいません! 失礼ですよね、ボクみたいな虫けらが宮地さんとこんな身近でマスクもせずに口を開いててあの、いまから」
「いいよ、お前だったら全然不快じゃねぇもん」
 耳に飛び込んだ言葉の空気は、随分暖かく、それなのにボクの指先は、ちりりと震える。人間って、嬉しいと震えるんだ、そんな事に初めて、気付かされた。
「今日は、黄瀬君と同じところで撮影なんですか?」
「ん、そうっぽい。あいついちいちうるせぇんだよ、同じ現場だって分かるとそっから1分後にはラインの通知なりっぱなしだからな。マジあいつうざい」
 全ての指を、何の装飾もない状態に戻すと、甘皮の処理も必要のないほどの美麗な指先が十、並んだ。日ごろ女性ばかりを施術していても、これ程までに美しい手指に出会ったことがない。毎度ながら惚れ惚れと眺める。彼の手に、無条件に触れられる職である事を良い事に、完璧に仕上がっている生の手をとり、指の一つ一つをつつと指先までなぞる。
「それ、くすぐってぇって」
「す、すいません! キモいですよね、すいません!」
「いや別にキモくはないけどよ」
 ポリッシュをかける必要がなさそうと判断し、朝の低い日差しが映り込む棚の中から、ハニーゴールドの瓶を手に取った。
「お、何か肌馴染良さそうだな」
「そ、そうですか? なんとなく宮地さんっぽい色って思って−−」
 傍らに置いた、予め蓋の空いたペットボトルに口をつけ、一つ、ため息をつく。溜息に潜む思いなんて、ボクには全然理解が出来ない。
「やっぱりネイルは、お前に頼みたいな」
「あの、ボクで良ければいつ、でも、何時だってやります! こんなスキルしかないですけど、すいません!」
 机にぶつけんばかりの勢いで頭を下げると宮地さんは、珍しく、声を立てて笑った。からりとした乾いた笑い声はボクが大好きな彼の特徴の一つ。成人した人の声にしては少し高めの彼の声が、さらに上向いて、ケタケタと音を鳴らすのが、ボクには心地よかった。
 彼の笑いを破る着信音が、店の中に響く。何気なく飛んだ視線の先、目に飛び込んだのは「志保」という二文字。
「ちょ、待ってて」
 立ち上がると、店の出入り口あたりまで歩いていき、ごく小さな声で会話をしている。
 思えば、宮地さんに電話がかかってくるシチュエーションは、数え切れない程目にしてきた。当然、液晶に映る大きな文字も、見ようとしなくても目に入ってくる事が多い。これまでは会社の名前や、フルネームばかりを目にしていたのに、名前だけ、という不自然さに、無意識から立ち上る嫉妬心が顔を出す。
 通話を終えると、どこか取り繕ったような顔で、「わりぃな、仕事先」と片手を上げた。
 知っているんだ。彼が嘘をつく時は決まって、左目蓋が痙攣する事を。
 友人に誕生日プレゼントを送るから、お前なら何が嬉しい? そう訊ねられてバカ正直に答えた末、実はボクへの誕生日プレゼントだったって時も、彼の左目蓋はなにかの儀式みたいにしっかりと、痙攣していた。
 仕事先。そう言った彼の目蓋は、ウインクするみたいに随分と仰々しく震えていた。きっと、プライベートの電話なのだろう。そこにボクが入り込む余地はない。だってボクは宮地さんの専属ネイリストっていう訳でもなければ、親友というわけでもない。ただ一方的に恋焦がれているだけの関係。フリーで働いている宮地さんには専属ネイリストがいないから、どこを経由してか、宮地さんがボクのところに通うようになっただけだ。

「あのな、桜井。話しておきたいことがあんだよ」
 右の指を彼色に染め上げると、先程よりも傾きを少し変えた日差しが、エナメルに反射し、光を放つ。見惚れるように仕上がりを確認し、もう片手をとった。
「なんです?」
 彼は一度指先に視線を落とし、薄く長いまつげがひらりと動く。それから、それと分からない程度の小さな小さなため息を漏らし、顔を上げた。
「明日の朝もここに来る。それでもう、最後になるんだ」
 あまりに突然の事に、脳が処理しきれず、指が止まり、手が止まる。呆然として開いた口から、何の言葉を発したら良いのか、考えあぐねるほどの処理能力もなく、無意味な声が「ああ……」漏れた。
「こ、今度さ、事務所に入る事になりそうで。それで、専属っつーの? 専属のメイクさんとか、専属のネイリストがつくんだって。だから、明日の仕事用ネイルで、終わり」
 筆を馬鹿みたいに繰り返し繰り返ししごきながら、何も返事が出来ずにいた。きっと、何の返事も期待されていないし、返事なんて必要な場面ではない。
 「分かりました」の一言が出ないのは、彼の左目蓋がひくついていたから。
 しごきすぎてすっかりネイルが落ちてしまった筆を再びエナメルに浸すと、酷く落胆した心根を覗かれないように意識的に声を高めた。
「よかった、です」
「よかった、か」

 ボクを除けば朝一番に出勤してくる店長は、珍しく長居をした宮地さんとすれ違い、目を丸くした。それはそうだ、今話題沸騰のモデル、宮地清志が自分の店に足繁く通っているなんて、思いもよらなかっただろう。
 ドアベルが小さく響き、外へと踏み出す宮地さんの背中に「お待ちしています」と飛ばせば、大きなバッグを掛けた長い左腕をすっと挙げ、ひらり振った。
「良君、今のってミヤジキヨシ、じゃないよね?」
「あ、すいません、あの、宮地さんです。けどちゃんと、お金もらってやってて、あの、すいません! コッソリやっててすいません!」
 すっかり眉尻を下げた店長は、仕方ないといった態で、苦笑する。
「知り合い?」
「えぇ。高校の時のバスケで繋がってるんです」
 ウェイティングスペースにある女性誌を一つ、手にした店長は、数ページ進みすぎたのか少しめくり直し「これこれ」とボクに差し出した。
「これもじゃぁ、良君が施術したの?」
 インタービューページの片面1ページを飾る、白シャツの宮地さんは、まるで天から舞い降りた天使みたいにページいっぱいの白い羽を身体に受け、口元だけで優しく微笑んでいた。両手の平に乗せた白い羽を接写しているせいで、ボクが施した白から水色のグラデネイルが、綺麗に写り込んでいた。
「これ、そうです。ボクがやりましたすいません!」
「別に、叱ってる訳じゃないよ。綺麗じゃない? 凄く。どんどん施術して差し上げて」
 ボクに何か言わせる隙も与えず、バックヤードに消えて行った。

     *

「良君! ちょうどいい所に来た。今呼ぼうかと思ってたところ」
 小さな弁当箱を手に箸を振り回す店長に、小首を傾げてみせれば、バックヤードにある小さなテレビを指差した。
 そこには、今朝見た格好と同じ宮地さんが、サングラス姿で映っている。右上には「LIVE」の文字。取り囲む取材陣よりも抜きに出て背が高い宮地さんに向け、幾つものマイクが向けられている。
「お相手の方のお名前を教えて下さい」
 ボクでもよく知るような芸能記者が伸ばしたマイクに少し顔を近づけると、「志保さんです」確かにそう言った。色の濃いガラスの向こう、彼の表情は全く窺い知れない。それでも、画面の下方に流れる文字を見るに、この囲み取材が彼にとって不幸なものではない事はよく理解できた。
「どんな方ですか? 同じモデルの方なんですか?」
 口を閉じ、少し逡巡した様子の宮地さんは、頬のあたりを蜂蜜色の爪で少し掻き、「ネイリストです」と答える。そこに映るネイルはボクが施したネイルに間違いないのに、もしかしたら朝のネイルはあの後すぐに落とされて、彼の「婚約者」が塗り直したネイルなのかもしれない、なんて自虐的な思考に支配されたボクの心は、じんと痛くて、例え宮地さんに嫌われたって、こんなに痛くないんだろうな、なんて思う。彼に嫌われることよりも、彼が誰かのものになる事の方が、よっぽど痛かった。
「今されているマニキュアも、志保さんが塗ったものなんですか?」
 じんとした胸が、握りつぶされるように傷んで、潰れたにしては随分と大仰な拍動をする心臓だな、なんて頭の片隅は現状を忘却するために大忙しだ。
「いや、これは違います。大事な友人が」
「それは女性ですか?」
「いえ、男性です」
 あからさまなぐらいに報道陣が落胆の色を見せた。相手が男と別れば、色恋沙汰には無関係な事になる。
 そう、ボクなんて彼の色恋沙汰に関与できるような性に生まれていないのだ。彼に「恋」をしているなんて、おこがましいにも程がある。
「凄いね、今人気絶頂なのに、婚約発表しちゃうなんて。女性ファンが減っちゃいそう」
 小さな玉子焼きを摘み上げると口に運び、咀嚼しながら「ね」とボクを見るから、ボクは返答に困りつつも思ってもいない「はい」をぽろりと零した。

     *

 翌朝、重苦しい足取りで店のブラインドを開けると、ボクの心なんて一切勘定に入れないという態で射し込む朝日が、色とりどりに飾られた棚に差し込んだ。遮るように光を背に受けるボクは、さっとそこから退き、施術の支度にとりかかる。
 事務所に入ると言った時、目の当たりにした左目の痙攣は、そういう事なんだろう。事務所に入るから専属のネイリストが出来るわけじゃない。そうじゃない。ボクより身近に、毎日を見守る存在が偶然にもネイリスト。彼のメンタルとフィジカルを見守りながら彼の好みや需要を把握して、彼色のネイルを施すことが出来る存在が出来たという事。
 宮地さんを祝福し、お花でも買って来るべきなのかなんて思ったのだけれど、到底そんな気分になれる筈がなく、ひと晩を越してしまった。ひと晩が過ぎ、胸の痛みは時の経過とともに少しずつ和らいで来ているのかもしれないけれど、あのドアからベルを鳴らして入ってくる彼の姿を目の当たりにすればボクの胸はまた、痛いぐらいの鼓動と苦しいほどの収縮に侵されて、呼吸すら危うくなるかもしれない。
 振り返れば、彼はずっと遠い桟橋に彼女と手をつなぎ、船が着くのを待っている。旅立ちの−−。
「はよっす」
 ベルの音より僅かに早い彼の声に顔を挙げると、それでもいつも通りに微笑む事ができた自分は予想外だった。
「おはようございます。どうぞ」
 椅子を引くと、いつも通りの重そうなバッグをどさと置き、椅子へと腰掛ける。マスクとサングラスを外した下にある彼の顔は、これまで見た彼の顔の中で群を抜いた疲労の色を見せ、不意に昨日の囲み取材を想起する。
「お疲れです、ね」
「ん、まぁ。そう。眠い」
「遅かったんですか? 昨日」
「そーなんだよ。電話が鳴り止まなくて」
 フリーでいれば全ての事務仕事が自分に回ってくる。各所への対応で多忙を極めたんだろう。
 ゼラニウムのアロマオイルをポットに落とすと、キャンドルを灯す。わずかに香るゼラニウムには、リラックス効果があるという。
「今日は、どんな感じにしますか?」
 ぼんやりと彷徨わせていた視線をボクへと届かせると「お任せで」と笑んで見せる。
「じゃぁ、初夏っぽい感じにしときますね」
 立ち上がると背後の棚からエメラルドグリーンとスカイブルーを取り出せば、ガラステーブルにカタリと置く。そこへ視線を落とすと視認し、ボクを見上げて満足そうに頷いた。

 触れた手の平は、室温と比べても随分と冷えたもので、血行が悪いのであろう色白の手の甲は青みがかって見える。そこに触れ、ボクよりも随分長い指を一つ一つ、揉み解していく。宮地さんは片手で頬杖をつき、うつらうつらし始めた。
「あの、あっちでやりましょうか?」
 リラクゼーション用のベッドは使用後の後始末があるので、お忍びがバレてはと思ってこれまれ使っていなかったのだが、店長にバレてしまった訳だし、今日で最後だと思えば、大した事ではないだろう。いかにもダルそうに足を引き摺りながらベッドに手をつくと、横になった彼の足元にブランケットを掛けた。
「ここに手を置いておいて貰えれば。全部終わったら起こしますね」
 口を開くのも億劫なのか、それと分かる程度に小さく頷いた宮地さんは、それから直ぐに目を閉じ、ベースコートを塗り終える頃には、規則的な寝息が届くぐらいになっていた。
 眠る彼の顔を見つめると、長い睫毛が影を落とす目元には、明らかな隈が縁取り、疲労の色が濃い。このひと晩で彼を襲った忙しさは身体に刻み込まれてしまったんだろう。それでも、彼女との未来のために、避けられない道。
 そう、そこにボクはいない。彼が進む道にボクはいない。これまでは紙面を飾る彼の指先に、ボクの形跡があったけれど、これからは愛する人が施した指先の輝きで、メディアに出て行くんだろう。
 ボクと彼は、ただの知人となるんだ。だから今日だけは、彼の傍にいる事ができれば。酷く身勝手な思考に自嘲気味に笑うと、エメラルドグリーンに手を伸ばす。
 彼女の先を行く事はできない。それでも、ボクだけが分かる形で、今日だけは彼の側に。

 ベースコートで薄っすらベージュ掛かった左の薬指、形の良い爪が朝の光を受けて僅かに輝いている。エメララルドグリーンを極細筆の先端に浸し、良く扱くと、小刻みに震える筆先にぐっと力を送り、爪に着地させる。
 まるで書でも認めるように書いた、ボクの名前の一文字。浮かび上がる文字は、彼の心臓に一番近い血管が通るこの指で、彼の1日を見つめるんだろう。このネイルが落ちる時。それはボクの手ではなく、彼女の手が彼に触れ、ボクの名は消去される。
 それでも、今日、数時間でもいい。
 文字の上からエメラルドグリーンのネイルを重ねると、ボクはボクが見えなくなった。
 思いついた思考に正直に、もう一色のネイルボトルを取りに行くと、施術台に乗せる。宮地さんは本当にぐっすりと眠り込んでいる様子で、口の端から僅かに唾液が見え隠れしている。幼子のように眠る彼の口元にティッシュをそっと押し当てた。
 乾いたエメラルドグリーンの上から、もう一色で装飾を施すと、トップコートを重ねる。全ての指を塗り終える頃には朝日は傾きを変え、横になる宮地さんに降り注いでいた。菜の花の色にも似た彼の細い髪の束が、キラキラと煌めき、白い肌は陽の光に映え、あぁ、彼は生まれながらにして多くの人の目に触れる運命だったのだろ、なんて思う。日に焼けてはと彼の目の前に光を遮るように立つと、それでも艶のある蜂蜜色が、輝いて見えた。
 出来心と言われればそうに違いない。済んだ後に罪悪感が襲う事も承知の上だった。吸い寄せられるように彼に近づき、形の良い薄い桃色の唇に、ボクは一つ、口吻を落とした。
 悔しかったんだ。ボクには到底敵うはずもない女性が彼の生活に入り込み、彼に触れ、彼の生活も、彼の心も、彼の指先をも彩っていく事になるなんて、悔しくてたまらないんだ。男のボクはそれに抗うことが出来るはずもなく、事実を知ったところで、スタンスを変えることすら許されないんだ。
 僅かに高い体温を唇に受け止めると、じわり、侵食するその体温のせいで、行き場をなくした水分が、瞳を濡らす。瞬きで涙を押し戻した。

     *

「宮地さん、終わりました」
 数度、目を瞬かせながら目を覚ました彼は、半身を持ち上げると大きく欠伸をする。幾分スッキリとした面持ちでボクを見ると、目を細めて微笑んだ。
「ごめんな、最後なのに寝ちまった」
「いいんですよ。疲れてたんですね。ぐっすりでしたよ」
「んー、色々忙しくてな」
 ベッドから飛び降りると伸びをし、「よし」一言呟くみたいに言って、長い腕で鞄を抱える。
「サンキュな。色、気に入ったよ」
「よかったです」
 身体が斜めになるほどに重い鞄を肩に掛け、ドアへと歩いて行く。突として振り向いた彼は、ボクが施術した左手を伸ばし、伏し目がちに言った。
「薬指のシルバー。嬉しかった」
 右の人差し指で指し示した薬指の爪先には、シルバーの弧が描かれている。ボクから彼へ送るリングの積もりで書き足したものだった。
「暫く消せねえな」
 表情まで窺い知れなかったけれど、口角がきゅっと上がって、きっと笑っているんだろうとボクは解釈する。
「お幸せに。宮地さん」
 俄に双眸を丸く見はった彼は、それからいつもの穏やかな笑みへと戻り、「さんきゅ」呟いた。
「本当は今日、オフなんだ。お前に会っとかないと、後悔するかなって。来たんだ。気が済んだ」
 ボクに背を向けた彼がドアを開けば、いつものドアベルが小さく響き、左手をひらり上げた彼は少しずつドアに侵食され、ガラス戸の向こうに透けている。まるで蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる彼の影は、やがてすっと、姿を消した。

 嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、このタイミングで頬を濡らす涙の訳が分からなくて、激しくなる慟哭に正直にボクは、涙を流し続けた。