った一つのエメラルド
「すいませーん、生中一杯」
 酒を注文するのも様になって来たなぁ、などと言って、隣に座る宮地さんは小茄子の浅漬けを口いっぱいに頬張っている。
 久しぶりに帰省している高尾は、相変らず飄々とした態で宮地さんを茶化し、きっと掘り炬燵の下では蹴り合いでも繰り広げているのであろう。
 目の前に出された突きだしの高野豆腐からじわりと染み出る出汁をいじりながら、二人のやり取りをじっと聴いていた。俺が余計な口をはさ挟むよりずっと、高尾と宮地さんのじゃれ合いを聴いている方が場が和む事は、もう既に慣れっこで、高尾が帰省する度に、どこか心の奥底がちくりと痛むのだった。
「そういえば、俺、彼女に香水貰ったんスよ」
「あ、だから匂いがするんだ、なんてやつ?」
 俺はそう言う話題に疎い。名前を聞いたところでそれが有名なのかどうかの判別もつかない。逆に宮地さんは、高尾に問うという事自体、香水についてそれなりの知識があるのだろう。
「ジバンシイのウルトラマリンっすよ。ちょっとミーハーっぽいかなって思ったんですけどまぁ、匂い嫌いじゃないし」
 ふーん、浅く頷いた宮地さんは、テーブル越しに首をぐんと伸ばすと、少し目を細めて高尾の首筋に届くかと思う程、鼻を寄せ、「ほんとだ」呟いた。
 昔から良くある事じゃないか、宮地さんとそれを茶化す高尾のボディタッチなんて日常茶飯事、常日頃から取っ組み合っているようにも見える二人じゃなったか?
 そう冷静に頭は理解しようとするのだが、実際は俺の頭の中は「嫉妬」の二文字で埋め尽くされる。目の前に出されたレモンサワーには殆ど口をつけていない。グラスに触れれば、表面の結露が重力に従って落ちて行く。コルクのコースターは湿って色を濃くしていた。
「宮地さんは、香水つけないんすか?」
「別に。匂いが嫌いとかじゃねぇけど、つけねぇってだけ」
「真ちゃんは? 香水は?」
 突如として振られた会話に、刹那目を見張り、内容を反芻して答える。
「おは朝のラッキーアイテムになったらつけてやらない事も無い」
 大阪で、家具や雑貨を取り扱うショップに就職した高尾は、年に数回、帰省でこちらへ戻る。その度、このメンツや、秀徳メンツで酒を呑み、語るのが通例になっている。
 大抵、帰りには宮地さんの家に泊まって行くのだが、ここ数日、早朝の会議が続いていて、とても宿泊できる状況にない。今日は諦めて帰宅する事になっている。
「俺な、もっと広い家に住みてぇんだよなー、デカいベッド買ってさ、ソファも六人掛けとか、夢じゃね?」
「いや別に、俺そんなにデカくないっすから」
 その新しい広い家に、俺はいますか? 問いただせば「愚問」と言われそうな問いでも、宮地さんと高尾の掛け合いを見ていると、どこか胸の内が不安で押し潰されそうになるのだから、嫉妬心は魔物だ。

    *

「そっかー、真ちゃんと宮地さん、もう4年になるかぁ」
「あぁ。そろそろ一緒になる事を真剣に考えているのだよ」
 そう告げると、どこか爽快感が襲う。俺とお前とは格差がある、そんな風に意地の悪い性根が垣間見えて、自分でも吐き気がするぐらいだ。
 人間の心は、正直にできているらしい。
「一緒に住むんなら、家具のご用命は俺んとこによろしくな、真ちゃん」
「全く、抜け目ないのだよ」

     *

 定時を少し過ぎて、宮地さんの携帯に連絡を入れる。いつになく騒々しい背後の音を気にしつつ、電話を切った。そろそろ野球のオールスターのシーズンだったか、そんな事を思い出す。
 バスケだらけの日常を送っていた俺と宮地さんだが、なぜか野球観戦は好きで、ナイター中継にかじりつくようにして、ビール片手に観ているのが最近のスタイルだ。
 騒々しかったのは、きっとテレビの音。
 辿り着いたマンションのインターフォンを押すと、開かれたドアをくぐり室内へ足を踏み入れる。揃えた靴が、二人の物だという事が、俺の毎日の支えだ。
「宮地さん、何の匂いですか?」
 嗅ぎ慣れない、仏壇を思わせる匂いが鼻を突きぬける。
「あぁ、白檀。線香の匂いっぽいよな。色々と浄化する作用があるらしい」
「何か不浄な事でもあるんですか?」
「あ、ん? え? いや、ねーよ。何だそれ、短絡的だな」
 そう言って、洗い物をしながら高い声で笑った宮地さんは、洗っていたグラスを一つ、シンクの中に派手に落とした。仰々しい音の中には甲高い音は無く、割れていない、そう判断する。
「あぁ、滑った滑った」
 ふと見たグラスホルダーには、もうひとつ、グラスが掛けられている。
「あれ、来客でもあったんですか?」
 滅多に人を家にあげないんだからな、そう念押しをした宮地さんが、家に招き入れてくれた日の事を、ぼんやりと思い出す。まだ学生気分が抜けきらない、夏の暑い日だったと記憶している。
「あ、そ、来客。妊娠してる姉ちゃんが里帰りでこっちにきてさ。寄ってった」
「妊娠中の人にはお香って、大丈夫なんですか?」
 そう言いながら、ベージュのソファに身を沈める。確かに、大男二人には手狭なサイズだが、より近くにいる事が出来ると考えれば、このサイズも悪くない。
「ん? あー、どうなんだろ、あ、でもお香はさっき炊き始めたとこだから」
 タオルで手を拭うと、スリッパを滑らせてこちらへやってきた宮地さんは、勢いをつけてソファに腰掛けた。スプリングが跳ねて、まるで波に揺られるみたいで、二人、少し笑う。
「たまにはさ、お香でも焚いてちょっと気分変えて、セックスすんのも、悪くねぇだろ?」
「今日は、泊まってはいけませんよ。明日早いので」
「だからぁ」
 不意と近づく彼の口元は耳に寄り、俺の鼓膜を小さく痺れさせた。
「ここでしよーぜ、ベッドじゃなくてさ」
 彼の頬を撫で、挟み込む。それから随分弾力のある唇を啄むように吸うと、互いを擦り減らすみたいな深い口づけをかわした。

     *

「ちょっと、トイレ」
 着てきたスーツを再び身にまとうと、トイレに歩いていく宮地さんを尻目に、ポケットに手を挿し入れる。その指の先に触れた小さな箱を取り出すと、紺色のベルベッドを纏った小箱。濃紺が光に照り、それだけでも特別な光を纏っているそれの、中身を確認する。
 少しシンプルすぎるぐらいのリングに、小さな小さなエメラルド。俺の稼ぎでは、これが精いっぱいだった。しかし、精いっぱいとは決してネガティブワードではない。これが俺の為し得る、精いっぱいの愛情表現。
 眠る間際、気付いてくれたらいい。ベッドの上に二つ並んだ淡いブルーの枕元に、この箱を置いておこう。
 ドアノブに、手を掛ける。少し荷重を掛けると、合板のドアが音も無く手前に引かれる。
 外廊下に面した寝室は、外から漏れる蛍光灯の光を映してなお、青っぽく薄暗い。
 一歩、部屋に踏み入れると、異変に気づき、心臓がぎゅっと締め付けられる感覚に陥る。
 まるで邪魔だと言わんばかりに蹴とばされたタオルケット。横並びに置いてある筈の枕の一つは、フローリングにへたりこみ、もう片方は、誰かに抱き付かれたかのように、皺を蓄えている。まるで、ついさっきまでこの部屋で、このベッドで、誰かが、誰かと、そんな想像が出来てしまう程に、臨場感のある光景。
 そして、それを煽る「香り」。
 まるで深海に取り残された様に、青い部屋の中、鼻腔を突くのはベルガモットとミントの香り。爽やかで、ウルトラマリンというその名をそのまま冠しているような香り。まるで「手を出すな」そう言ってこの部屋に海色のバリアを敷かれてしまったような、孤独感。

 四角いベルベッドが、手のひらから転げ落ちた。

 どうしてだろう、ちっとも悲しくなんてないのに、初めて抱いた彼の温もりが想い出の中から風にさらわれて行ってしまうようで、彼の鼈甲飴のような瞳が、俺とは別のどこか楽しげな空間を見つめている様で、からめた筈の指は一本一本離れて行き、別の次元に向かって伸ばされている様で、離れたくなくても、不随意に距離が伸びていく。
 そんな底なしの絶望に晒されて俺の頬には、涙の雫が一つ、筋をなした。

     *

「緑間?」
 掛けられた声にも振り向く余裕はなくて、しゃがみ込んだ俺の肩に掛けられた手にはもう、以前のような温もりが消えてしまっているような気がして、手を払いのける。
 立ち上がると、恐る恐る伸ばされる手を避けるようにして俺は、部屋を出た。

     *

あなたとの出会いは、運命でした。
でも、運命に左右されなくても、
俺は宮地さんを守って行きます。
だから、いつまでも一緒にいてください。

緑間真太郎

     *

 馬鹿みたいに丁寧な文字で書かれた、白い紙。
 あいつの瞳みたいに、小さく、しかし未来の向こうまで見透かしてしまう程に透明なエメラルドグリーンがはめ込まれたリングを拾い上げると、左手の薬指に通してみる。
 安っぽい蛍光灯だって立派に跳ね返す光は俺の中の何かを覚醒させたのだと思う。
 箱を放っぽり出して部屋を抜けると、鍵を掛ける事も忘れ、外に飛び出した。
 翡翠色に揺れる、宝石のような、たった一人の彼を、探して。