太陽と空の境界線
「おい、腹いてぇから抜ける」
 けたたましい音とともに椅子を尻で押した、目の前の席の青峰君は、9月に入って5度目の腹痛を訴え、教室を出て行った。
 教師だってもう慣れっこだ。なぜか彼が興味を示す生物の授業以外、大抵は寝ているし、ふらっと教室を出て行ってしまう。咎める人なんていない。誰も彼に、関心を向けない。
 その後姿はいかにも怠そうで、しかしどこか寂しそうで、ドアの向こうに姿を消すまで、じっと見送ってしまう。今日もドアを出てすぐに、何かの儀式みたいに上靴をきゅっと鳴らし、廊下を歩いて行った。足音が少しずつ消えていく代わりに、無音となっていた教師の声が、フェイドイン。
 退屈な授業、思わず欠伸を噛み殺す。扇風機もない殺風景な四角い部屋で、同じような顔をした同じような人達が、大して確固たるものもない将来の夢にしがみつき、必死で板書する。
 授業を聞かない青峰君は、さっさとスポーツ推薦が決まった。これを不公平と言わずして何という。
 まともに授業を聞いているのが馬鹿らしくなったのは今日だけではないが、空の向こうに湧き出る綿飴みたいな入道雲と、馬鹿みたいに晴れた空を観ていると、平和ぼけした日常から一歩、踏み外したくなるもので。
「あの、先生、スイマセン、あの、頭痛くて......スイマセン!」
 振り向いた教師は驚いた素振りで、口先ばかりの見舞いを言う。ボクはその言葉の半分も理解しないうちに、教室を飛び出した。

 日頃施錠されている屋上のドアに、鍵が刺さっている。どうしてそうなったのかは知らないが、青峰君は合鍵を持っているらしい。ドアノブを回すと、隙間から少し涼しい風がすっと、流入する。どこか乾いた風の匂いは、もう夏を終え、秋の支度をしているようで。一歩踏み出せば、南中を迎えようとする太陽は影を作る事を許さない。屋上に点在する人工芝の一角に、青峰君は仰向けになっていた。
「青峰君」
 声をかければ、眩しそうに目を瞬かせる。
「ん、良か? どした」
「頭が痛くて」
 すっと半身を起こすと彼は、ボクの瞳を覗きこむ。
「大丈夫か、保健室行けよ」
「あ、だ、スイマセン! 大丈夫ですあの、け、仮病っていうか、その」
「んだよ、俺と同じかよ」
 そう言って彼は頭の後ろに手をやって、再び寝転んだ。偽物じみた緑の芝生に足を踏み入れる。熱に侵された植物は、しきりにその匂いを蒸散させているのか、どこか青臭い。
「座れよ、立ってないで」
 ぽす、とすぐ横の芝を叩いてみせた青峰君は、再び目を伏せて、大きな溜息を吐いた。
 初秋の風は凪いで、ボクの鼻先を掠めていく。明らかに夏とは違う空気感。それなのに屋上は太陽に少しだけ近くて、じり、と肌を焦がすような熱さはまだ、夏のそれと変わらない。
 青峰君がしているみたいにボクも、両手を頭に添えて、寝転んでみる。青みがかった白のシャツから出る腕を、芝生の先がちり、と刺激するのがこそばゆく、「くすぐったい」そう声に出す。
「芝生か。大分伸びてきたから葉先が柔らかくなった方だけどな」
 目を瞑ったままそう、零す。
 横になり、空を見上げる。今まさに南中を迎える太陽は、真っ白い光からなるグラデーションを空に広げている。それがいつしか青空に溶け込んで太陽と空の間にある境界線なんて、分からない。それでも空の青はしっかりと青で、毎日青峰君は、この景色を観ているんだ、なんて思う。
「いいところ、ですね」
「ん、そうだな。昼寝するには丁度いい」
「あっ! 邪魔してスイマセン! 邪魔ならボク、保健室に行くけど」
「いいよ別に、お前がいるとなんか、安心するし」
 何気なく零したその言葉が、なぜかボクの心臓のどこかをつんと、突いた。鼓動を早くした心臓に気付かれないように、一つ咳払い。
「眠くなったら寝ていいよ。チャイムが鳴ったらボク、起こすから」
「流石に俺だって、チャイムの音すりゃ目が醒めるって。お前も寝てろ」
 少しずつ、少しずつ、眠そうな口調に傾いているところ、まるで大きな子供みたいで微笑ましい。目を瞑る彼をじっと見つめると、堀の深い整った顔立ちのどこかにまだ残っているのでだろう、幼い部分を探してみる。
「良はさ」
「ん?」
「大学どこ行くの」
 ちら、と開いた紺色の瞳はこちらを見遣り、まるでウインクしているみたいでどこかおかしかった。
「何笑ってんだよ」
「あ、いや。大学は美術が学べる大学に行きたいんだ。そっち系に興味があって」
 ふーん、まるで興味なさそうに、開いていた瞳をすっと閉じると薄っすらと口を開く。
「俺が行く大学にも、美術学部って、あったぞ。受験しろよ」
「え? あ、え、青峰くんと同じ、大学ぅ?」
「何だ、嫌か」
 早鐘を打つ心臓が、うまい呼吸を妨げる。どうしてこうも軽率に、ボクへ近づこうとするのだろう。それはボクへの興味の現れなのか、逆に何の興味もないことを示すのか。
「うーん、まだ決めてないけど、偏差値的には狙えるかなって思ってる」
「だったらよ、受験しろよ」
 深い意味もなく吐出される彼の言葉を拾い集めればボクは、黙って寝転んでなんていられなくて、そのうち居心地が悪くなり、上半身を起こしてしまった。
「そ、だね。同じ大学、行きたいな」
 目を瞑っている彼に、赤面を悟られることはない。でも余りにも血液は顔面に集中し、虚血になりそうな手の平で形ばかりに頬を冷ます。
「そしたらバスケやろーぜ。お前と一緒にバスケすんの、俺、好きだし」
 すっと開かれた瞼から覗く紺色の瞳は南中の太陽を反射して、淡いブルーを呈している。吸い込まれそうな青に見惚れ、好きだという言葉に酔いしれ、だからこそボクは、上手く笑えなかった。
「うん」
 再び目を伏せた彼は、小さくため息を吐き、そして続けて紡ぐ。
「俺がお前にずっと言いたかったことは、それ」
 穏やかな涼風の中、一匹の黒揚羽が羽をはためかせながら飛んできた。自由に風に乗って、横になる青峰君のずっと上を旋回すると、そのまま下へ下へと舞い降りて、気付けば彼の鼻の頭に止まった。黒の中にパレードの光みたいに様々な光の色が控えめに踊っている。華麗に舞うその周囲には光る鱗粉の存在が容易に想像でき、あまりの美しさに、視線を釘付ける。
「ん、くすぐってぇな」
 眩しそうに片目だけ開くと青峰君は「何だ、黒揚羽じゃねーか」そう言って酷く優しく微笑んで、長い人差し指を差し出した。黒揚羽は近づいてくる黒い物体に動じずそこに留まったけれど、触れるか触れないかという瀬戸際で、ふわっと上空へと舞っていく。
「そろそろ黒揚羽の季節も終わるな」
 再び目を伏せる。黒揚羽はボクの頭上で少しだけ舞った後、気に入ったのか再び青峰くんの元へとひらり、降下して彼の鼻先に止まった。もう彼は、瞼を開かない。
「相当好かれてるらしいな、黒揚羽に」
「色が似てるから、とか」
「お前も結構言うなぁ、良」
 くすっと笑った拍子に揺れた彼の鼻先から、再び黒揚羽が舞い上がる。ふわっと風に乗り、遠くに見える入道雲の方へと消えていった。
「俺な、お前はどう思ってるか知らねぇけど、少なくとも俺はお前と長いこと仲良くしてぇんだ」
 瞳の表情を覗かせない彼の心を読み取ることは到底難しく、しかしきゅっと上がった口角を見れば、それが心から喜ぶべきことなのだろうって事ぐらい、ボクにも分かる。
 それが例え、ボクが望んでいる関係性を指しているのではないにしろ、彼に存在を肯定される喜びはボクを笑顔にする。
 顔を寄せれば、思ったよりも随分とまつげが長い事に気づく。骨っぽくて男らしい鼻梁と、薄い唇。全てをボクのものにしたいという欲求を、今の彼に、今後のボクに、どうやってぶつけたらいいのか暫く迷う。ボクもひらりと舞うアゲハチョウみたいに、彼に触れられたらいいのに。
 そう思えば刹那、すっと首を伸ばし、彼の鼻頭に小さく、口吻をした。
「ん、良?」
「いや、さっきの黒揚羽だよ」

 好きだよ、青峰君。

 ずっと一緒にいたいことも、でもボクはもうすぐ英国に渡る事も、いつか言わなくちゃ。
 唇の先も、目頭も、じんと熱かった。