存在確認
 ずっと傍にいる。
 隣でも上でも下でもない、君の傍に。その更に先、暗闇の中に輝く何かが見えるのならば、力ずくでも俺がそれを手に入れる。親愛なる君の心と身体を、永久に俺が、護ってみせるから。
 俺の傍にーー。

     *

 いつになくのんびりとした正月を過ごし、いつになく張り合いのない学校生活が始まった。ウインターカップが終わった今、懸念事項といえば大学受験か、体型維持か。教室の喧騒、エアコンからの生ぬるい風。薄汚れた机に頬杖をついたままシャープペンを回し、ぼんやりと考える。
 進学する大学は、将来を見据えて志望したものだ。バスケは二の次、三の次。興味がある電気工学を学んで機器メーカーにでも就職し、最近になってリストラされた親父に代わって俺が稼ぎ頭にならねばならない。
 焦燥や苛立ちは常に付きまとい、将来の「展望」などという底抜けに明るい言葉には嫌悪感すら抱く。あるのは現実。想像をしている暇はない。
 この先の暮らしに何の喜びも見出だせずにいた俺だったが、ただ一つ、監督の言葉が救いだった。
「大学でバスケ部に入らないなら、うちでコーチをやってくれないか」
 二つ返事で承諾したそのテンションで、後輩達にもその報告をした。勿論あいつらは素直に喜んでくれたし、高尾に至っては涙目だった。後輩の面倒を見ることは嫌いではない。寧ろすすんで世話をしたいとも思える後輩達に巡り会えたことは、幸福だとしか言い様がない。

 それでも現実は厳しく俺にのし掛かる。稼ぎが減った父を少しでも支えようと、責任感の強い母は牛丼屋で遅くまで働いている。父は工場に再就職したものの、生産ラインの歯車要員。拘束時間ばかりが長く、向こうが透けて見えるぐらいの、薄給。
 俺が帰宅する時間、どの部屋も電気は消えたまま。母が俺を気遣って点けて行ってくれる、玄関灯だけが辛うじて丸く、橙を落としている。最後に家族揃って飯を食ったのはいつだったろうか。「暖かな家庭」という言葉とも、随分と離れたところに来てしまった。

 学ランのポケットに入れた、と思っていた家の鍵が見当たらない。探った指の先に触れたのは、冬の寒さに温度を失した金属の冷たさではなく、くしゃと潰れたポケットティッシュだった。
 鞄の口を大きく開き、玄関灯の下に翳すと、疎らに開いた参考書類の隙間を縫うように、指を這わす。
「あっれー?」
 無意識に、誰にともなく漏れた声に苦笑しつつ、諦めて鞄を肩に掛け直す。どうということはない、このまま二時間、三時間、母親が帰宅するまでどこかのカフェでハニトーでも食いながら時間を潰す事を考えた。駅まで十分、逆戻りする事になるが、運動不足を懸念する身体には丁度良かろうとポケットに手を仕舞い込み、駅に向けてアスファルトを踏む。
 頬を刺すような一月の寒風に思わず身震いし、首に掛けた紺色のマフラーを口元まで引き上げる。自らの体温が、顔の下半分を潤し、僅かに体感温度が上がるのを感じた。湿度の上昇は温度上昇を招く、そんな当たり前の自然法則を、薀蓄から思い出そうとした刹那、右肩を何かが触れた。歩を止める。
 触れる、という言葉が相応しく、叩く、と言うには幾分弱々しいそちらにすっと視線をやれば、そこには見た事がある栗毛童顔の男が一人、不安げな表情を伴って目を潤ませ、俺と同じように学生鞄を持って立っていた。
「あの、宮地さんですよね? す、すいません」
「はぁ......、あぁ、桐皇の桜井か」
 気弱そうに眉尻を下げた桜井は「はい」とたちまち消えて行く白い煙みたいな返事をし、控えめに笑う。一瞬にして、淑やかで可憐な花が咲いたような、どこか女の仕草にも似た彼の雰囲気に、僅かながら動揺する。
 当たり前だ。ユニフォームを着て橙の球を追い掛けているシチュエーションでしか、彼と出会った事が無い。チームメイトならまだしも、他校の俺が桜井の日常生活の所作を垣間見る事など、これまでにある筈もない。寒さで鼻の頭を僅かに赤く染め、椀型にした両手にふうと息を吹きかける桜井は、まるで女だ。気付けば頬は僅かに熱を持ち、だらしなく開いた口元を覆うことを放棄したマフラーを、慌てて元の位置まで引き上げる。
「な、何してんだ、こんなとこで」
 俺のくぐもった声が聞き取り難かったのか「へ?」と彼の顔が接近する。桃色の頬に白い肌、栗色の毛はサラリと揺れて、それだけの事で目眩にも似た感覚を起こす俺は、どれだけ「女性不足」なのかとほとほと呆れる。
 一旦マフラーを下げて同じ言葉を口にすれば「あぁ」と二三頷きながら顔を上げた。
「予備校の帰りです。自宅からは少し離れてるんですけど、予備校はこの駅裏まで通ってて。宮地さんはここで何をしてるんです?」
 本来の目的は何だっただろうか、俄に活動を早めた脳から「ハニトー」の単語が排出される。
「ハニトー食いてぇなぁってさ。家、鍵がなくて。時間あるなら一緒にどうだ? まだ飯食ってねぇだろ?」
 そこから見える、煌々と灯りの照るカフェへ親指を向けると、目を細めて笑った桜井は、街灯を反射する艶やかな髪をひと撫でした。

(サンプルです)