俺が自分でテーピングを巻く理由
「とりあえず、さっきの試合の振り返りは以上。次の試合は一時間後だから、各々水分補給をして、徐々にアップに入るように」
 監督の言葉に返事が幾つも重なった。その中に、彼の声は紛れている筈がない。
「宮地、は、いつも通りか」
 大坪さんの声に振り向けば、背もたれも何もない青いプラスチックのベンチに、飴色の髪がひたと横たわっていた。
「面白いっすよね、原始的っつーか、何つーか」
 くすりと笑う高尾の髪を、大坪さんの大きな手がくしゃと掴む。
「どんな形でもいい。とにかく次の試合の前に少しでも身体を休めろよ、お前も」
 見つめていた指先に、薄っすら影が落ちる。顔をあげれば、崩れた前髪を手直ししながら高尾が立っていた。
「しーんちゃん、テーピング巻き直すっしょ?」
 周辺視野に映り込む飴色の髪は、先程と少しも形を変えぬまま、きっと小さな寝息を立てて、目を閉じている。
 水分補給を終えたメンバーが次々とロッカールームを後にして行くのを見送りながら、俺は薄汚れたテーピングの端を右の指で摘まむ。
「だから言っただろう、テーピングは一人で巻けるようになったのだよ」
「えー、しんちゃん最近俺のこと頼ってくんなくない? 高尾ちゃん超寂しいけど?」
 摘まんだ指先に力を入れて少し引っ張れば、するすると擦れるような音とともにテーピングが剥がれて行く。
「自分でできるのだよ。だから先に、アップに行け」
「つれねーのなー。ま、いっか。じゃあ真ちゃんここ出る時宮地さん起こしてあげてよ」
 蒸れで少しふやけたような指を一旦濡れタオルで拭うと「あぁ、分かった」返答する。
何やらぶつくさ言いながら、高尾はロッカールームを出て行った。

 いつからなのだろう。俺が入学した頃すでに、宮地さんは試合後のミーティングに参加していなかった。
 特異体質、というべきなのか、通常の人間と疲労回復の方法が異なるらしい。
 とにかく、短時間でも、眠る事。これが彼の最大の疲労回復方法。
 とはいえ、狭いロッカールームで眠る場所などあるはずもなく、いつもこうして狭いベンチで、胎児のように丸く膝を抱え、少し眉間にシワを寄せて眠るのだ。

 救急バッグから鋏とテーピングを取り出すと、まずは爪をコートする。それから遺伝子みたいな螺旋型に、テープを巻きつけて行く。以 前は高尾に頼んでいたのだが、コツを掴んで自力で巻けるようにした。
 理由は明白で。

 テーピングを巻き終え、立ち上がる。宮地さんの丸まった背中に一歩、また一歩、静かに近づく。近づく度に、少しずつ耳に入る、微かな寝息。規則正しいそれを乱さぬよう、静かに、近づく。
 背後から見た彼の横顔は、僅かに紅潮した頬に、飴色の髪がはらりと被さり、硝子玉みたいな瞳を閉じ込める睫毛は瞼に影を落とす。耳下から顎にかけてのラインがまるで彫刻のように美しく、飴色の髪からは形の良い耳が覗く。
 美しい、横顔。今この瞬間は、独り占め。飽きもせずじぃっと、眺めていると、時間の概念を忘れてしまう程に、美しい。
 しばらく眺めているうちに、小動物が小さく鳴くような、可愛らしい音がする。彼の喉から奏でられている音だと思うと、酷く愛おしい。
 それから、まるで朝日でも浴びているみたいに眩しそうに、数回の瞬きを繰り返す。都度、羽ばたくように上下する睫毛は、まるで音を奏でるようで、少しの音も逃さぬよう、息をするのを忘れる。
 丸めていた背中が徐々に伸びると、ベンチなんで御構い無しに長く伸びる脚は空に浮き、ぐっと伸ばされた腕は隣のベンチに届くほど。
 彼の背から離れると、前に回り込み、目の前にしゃがみ込む。伸びとともにギュッと瞑られた目元が、刹那その力を緩めると、透明な飴玉みたいな瞳がこちらに向いている。
「緑間、おはよ」
「おはようございます、宮地さん」
 目尻を下げ、少し笑んだ彼の表情を合図に、俺は彼の唇に自らのそれを、重ねる。
 啄ばむだけの短い口づけに、二人してはにかむように笑い、そして立ち上がる。

 何度も朝を迎える彼の、何度も訪れる朝に、いつだって俺がそばにいるために。

 俺が自らテーピングを巻くことを決意した理由だ。