同じ場所を見てる
 お前が俺だけを見つめていて然るべきだ、なんていう考え自体が、傲慢極まりなかった。
 物理的に同じものを見つめる事なんて、誰にだって、何にだって、出来るんだから。

     *

「へ?! 今、今なんて」
「だからぁ、もうお前についていけないって、言ったの」

 暑さ凌ぎに買ったテトラパックのジュースはあっという間に空になり、手の圧でくしゃと押し付けたそれを、屑籠に向かって放った。それは余りにも美しい放物線を描くのに、塗装の禿げた縁に鈍い音と共にぶつかる。結露していたパックの表面に砂がつき、たちまちゴミらしく姿を変える。
「すいません! ボク、宮地さんの気に障るような事ばっかりして、すいません!」
 ブランコの柵から立ち上がると、直射する真夏の光りに眩暈を覚える。茨の道を行くように慎重に数歩踏み出し、屑籠にゴミを捨てた。
「どうしたら......どうしたらいいですか? ボクに出来る事はありますか? ボク、何でもしますから!」
 ワイシャツの首元をぐっと握りしめ、糞暑い日にもかかわらず顔を真っ青に染めた桜井は、離れていても分かる程度には涙を溜めている。
「もう、遅い」
「どうしたら......」
「お前、俺の事なんて見ようとしねぇだろ! いつだって俺と違う所、見てただろ!」
 二人の仲が切羽詰っているこの局面に際しても、何ら気付かずただおろおろしている桜井に、俄かに憤り、思わず声を荒らげる。ハッと我に返り、呑みこんだ時にはもう、言葉は出尽くしていた。
 表面張力が崩壊し、零れ落ちる涙は真夏の日差しを受け、場違いな程に美しく、煌めいている。手を伸ばし、あの涙を拭ってやるのは、誰の役目だったのか。
「一緒に図書館に誘えば、今吉に勉強を教わる、って? 何度目だよ。やっとオフだってのに桃井に料理を教える? お前がやる必要はあんの? 毎日青峰に弁当作ってるって、お前、あいつの何なんだよ」
「あの、でも、宮地さんの事はちゃんと、好きで、すいません! 同じ学校にいたら絶対、宮地さんにお弁当作るし、一緒に勉......」
 もどかしく、髪をくしゃと掴む。痛みは確かなのに、コイツと会話をしていると自我が持って行かれる気がして、幾度も、幾度も髪を掴み、現実のイタミを取り戻す。
 鋭い視線を向けたつもりはなかった。ただ、桜井を見据えた瞬間の彼の委縮ぶりから察するに、きっと俺は、随分と鋭利な視線を送ってしまったのだろうと、後悔の念は随分遅れてやってきた。
「同じ学校にいなきゃ、同じところ、見てらんないんだよな。お前は」
「すいません! そう言うつもりじゃ、あの、ボク頭が足りないからあんまり難しい事は分かんないんですけど、とにかく好きで、好きで、あの......」
「もういい、聞き飽きた」
 胸にわだかまる思いは利己主義的で、ただの嫉妬から成っていて、口に出すのも憚られるように、醜い。それをカモフラージュしたいがために、口から零れ落ちた......

「大嫌いだ」

 零れ落ちた言葉の雫は、自由落下する水滴の様に不可逆に落ちて行き、決して俺の元には帰って来ない。それなのにきっとこの言葉は、桜井の心には鋭利な刃物として形を変え、突き刺さり、一生消えない傷を作る。
 言葉の軽さ、重さ。
 見上げた夏の青空は、青と呼ぶにはあまりにも淡過ぎて、泡沫でしかなかった俺達の仲を映していると思うと、思わず目を背ける。目蓋を閉じる瞬間、目に飛び込んできたのは、空の淡青と決して交わる事のない、白色の入道雲。
 遠くから、胸の奥を震わせるような雷鳴が、響いて来た。

 まだ好きなんだ、そんな事は言える筈がない。己の醜い嫉妬心を露わにしておきながらこの関係を続けていく事は、俺には出来ない。

「じゃ、な」

 未だワイシャツの襟元を握りしめたままの桜井は、もう涙は枯れたのか、ひびの入ったビー玉みたいに光を失った栗色の瞳で俺を見据え、片の口端だけで歪に笑んで見せた。

 背を向け、歩き出す。初めの一滴がワイシャツの肩口を濡らし、少しグレーがかった染みになる。それから幾許もせず、水色の空は灰色へと移り変わり、涙を見せなかった桜井の代わりのように、大粒の雨が辺りを濡らした。


     *

 家の前に、宅配のトラックが停車した。丁度、部屋の窓から真下を見ると、母が玄関を開け、小箱を受け取っていた。すぐさま階下から名を呼ばれる。  その荷物は、俺宛てだった。

 差出人が書かれていないその荷物に見覚えはなく、宛先は手書きではなく印字されたものだった。透明のビニールテープで厳重に封がされている小型の段ボールを両手で支え、振ってみる。何か重みのある物が揺れ動く感覚。しかしそれにも何ら心当たりはない。
 カッターナイフでビニールテープに刃を入れる。小動物の鳴き声みたいな音を鳴らして、切れ味の悪いカッターが進んでいくと、刃こぼれみたいに汚い断面に指を突っ込む。
 そこには、白い箱と、あの暑い日に見た淡い青と同じ色をした、封筒が重なっていた。
 四つ折りの便箋を取り出すと、淡い青を背景に、まるで猫背みたいに丸っこい文字が並んでいる。

『傍にいて、同じ月を見て、同じ空を見て、同じところを見ていたい。僕の気持ちは変わりません。こんな事しか出来なかったけど、僕の気持ちを送ります。きっと連絡が貰えると信じてます』

 心の奥を抉る後悔の念に気づかぬふりをして、咳払いをした。
 丁寧に畳み直した便箋を、封筒に差し込む。段ボール箱の隅にそれを置くと、代わりに白い箱を取り出した。何の印刷もされていない、真っ白な箱。大きさの割に、ずしりと手に重さを感じる。
 隙間に人差し指を突っ込み、蓋を開けてみる。俺も良く知るジャムの瓶蓋だった。中身は、窺い知れない。
 僅かに斜めにすると、こぽっと水が移動する感覚が手に伝わった。この重さは、瓶の重さだけではない、水の重さなのだと判断する。
 水が漏れ出さないか、不安な手つきで少しずつ瓶を取り出す。白い箱にきつく収まった瓶は、摩擦がかかり容易に取り出す事が出来ない。
 半分ほどまで出したところで、急激に摩擦が抜け、手を離れた瓶は落下する。フローリングとの間にごろりと音を立てながら、陽がさすバルコニーの手前まで、転がった。

 目の前に展開される光景に、吸い込んだ息が吐出できない。総毛粟立つ感覚に、背筋には妙な汗が一本の道を作る。言葉にならない奇妙な音が不随意に口から漏れ出して、瞼の奥が青黒く変色していく。人の身体でも借りたかのように、自由にならない膝が音を立てる勢いで震えている。気が遠くなり、思わず傍にあった机にしがみ付いた。

 瓶の中は、心の奥の奥まで見透かしてしまいそうに酷く透明な液体で満たされている。
 その中を揺蕩う、白い糸状の物体に繋がる二つの青白い球体は、まるで意志を持つかのように僅かながら回転し、バルコニーを見上げる。

 晴れ渡った夏の空を見上げた栗色の光彩は、光りを浴びて淡い青を映していた。