VOICE
「珍しいな、高尾が先に帰るだなんて」
 自主練を終えるとロッカールームに三人の声が響く筈が、今日に限って二人きり。
 好きだ、そう言われて付き合いを始めたのは1か月前。俺は緑間の真直ぐで純真な所に惚れていたし、きっと緑間から言わなければ俺が先に告白をしていたかもしれない。
 それぐらい、俺は緑間が好きだった。
 しかし、行き過ぎた感情が災いしてか、これまで心待ちにしていた二人きりの時間が、付き合い始めてからは極端に苦手になった。意識し過ぎてしまう互いが、容易に会話も出来ず、結果的にはふらりとしている高尾に頼る状態だった。

「二人、ですね。久しぶりに」
 ベンチに腰掛けた緑間は、床に置いた救急バッグから鋏とテーピングを取り出すと、傍らに置いた。対をなすようにテーピングを挟んだ反対側に座った俺は、彼の動きを横目で見ながら、バッシュの紐を緩める。
 少し長く引き出したテーピングを、人差し指に巻きつけて行く。しかし、巻けば巻く程に下方がたわんでいく。少し苛ついた様に片眉を上げ、巻き付いたテーピングを一気に取り去ると、再び指に巻きつける。しかし、一向に巧い事巻きつける事が出来ずにいる。いちいち苛つきの表情を見せる所が、幼げで、可愛らしかった。
「やってやろうか?」
 眼鏡の脇からそっと俺に視線をくれると、頷く代わりに一つ大きな瞬きをする。まるで鳥が羽ばたくみたいに優雅に、長い睫毛が上下した。美しくて、心奪われる挙動。
 彼の目の前に跪くと、今にも壊れてしまいそうなほどに美しい手指を片手に乗せた。爪を守るように指先をしっかり隠し、それから傾斜をつけて巻きつける。きっと高尾程ではないにしろ、それでも緑間が望む爪の保護は出来ているだろう。
 全ての指にテープを巻きつけると、そっとその手を緑間の膝に戻す。ずっと触れていたい。しかし、ずっと触れていてはいけない。緑間を愛する事は、禁断の果実を食す事に、少し似ているな、なんて思う。
「終わり」
 そう言って、視線を上げた刹那、彼の唇が突如、俺の唇に重なった。それは一瞬の事で、しかし何十分も触れていたみたいに、唇に残る感覚が熱い。
「な、んだ? 急に」
 テーピングを施した指で眼鏡のリムを引き上げると、緑間は明後日の方向を向いて、言った。
「宮地さんは、何もしてくれない。二人になる事を避けている。それぐらい気づいているのだよ」
「んな事……」
「本当は、高尾といたいんじゃないですか? 俺といても、いつでも高尾を目で追っているじゃないですか。そんなに高尾が良かったですか」
 迸りそうになる曖昧な否定の言葉をぐっと飲み込み、緑間を見れば、先程の長い睫毛が、濃く濡れている。手を伸ばし、彼の眼鏡の弦に手を掛けると、すっと抜き取った。王子様がお姫様に遣えるように跪いた俺は、彼の伏せられた目元に親指を這わせると、やはり少し濡れていた睫毛は部室の蛍光灯を反射し、白っぽく揺れた。
「どうしたら、分かってくれる? 俺、結構本気だぜ?」
 伏せた目はそのままに、緑間の口元に笑みが灯る。しかしそれはどこか不安定で、揺れ動いているような、心許無さを感じる笑み。心と体のアンバランスを表すみたいで、心地が悪かった。
「緑間?」
 傍らに置いた鈍色の鋏を手に取った緑間は、その先端を下方に向けてぐっと握りしめると、思い切り空に振り上げる。余りに突然の動きに何の反応もできず、ただただ鈍色を目で追う事しか出来なかった。
 次の瞬間、鈍色は、緑間の手の甲に突き刺さっていた。じわ、と沁み出す血液は、次第に流れを作り出す。刹那止まった呼吸。唾液を飲みこむ音が耳に届く。過剰に生産される唾液を呑みこむ事に必死だ。
「舐めてください」
「は?!」
 痛みに顔を歪めた緑間は、それでもどこかに笑みを隠し持ち、俺に言う。
「傷口を舐めてください。俺の事を本気で思ってるのなら、俺の全部を、あなたの身体に受け止めてください」
 そう言って、直立していた鋏を抜き取れば、更に溢れ出る紅が俺を誘う。緑間と一つになる。こいつが望むなら、俺は何だってする。

 血液が溢れ出るそこに、静かに、舌先を落とす。びく、と跳ねた緑間の身体。そのままつつと舌を這わせれば、大きく熱い吐息が、頭上から降ってくる。舐めても、舐めても、溢れ出す血液を、口の中に受け止める。俄かに生臭さが鼻をつき、胃の底から込み上げる物があるがそれをも飲み下せば、不随意に顔が歪んだ。
 この苦しささえも、愛と捉えてくれるのなら。
 お前の痛みを、俺の中に受け止める事を、お前が望むのなら。
 幾分歪んだ愛情だろうと、お前がそれを享受してくれるのなら。
「お前のためなら、何だってする」
 血液の紅にまみれた緑間は、いっそう白が際立って、恐ろしい程美しい。心なしか唇の色が青みがかっている事に気づくと、俺は舌先に残った血液で、彼の唇をなぞった。
 偽物の赤を取り戻した唇で、歪な微笑みは妖艶に映る。
「誰もいない世界に行きたいと言ったら、一緒に来てくれますか」
 手渡された鋏にはまだ、生々しく彼の体液が付着している。脱いだユニフォームの裾でそれを拭うと、俺は二本の刃を首筋に宛がった。
「一緒に、行くさ」
 力強く、下方に突き下ろすと、感じた事のない激痛に、息が詰まる。刹那、降り注ぐ紅い雨は、リノリウムの床に僅かな音と共に落下する。
 緑間の美しく白い頬にも細かな血飛沫が飛び散っている。美麗な花魁が赤い着物を纏っている様で、美しく、儚いその姿にしばし見惚れる。
 痛みに歪む俺の顔に近づいた緑間は、きっと紅で汚れているであろう俺の頬をしっかりと包み込み、深く深く、堕ちてしまうような口づけをした。
 俺の手から、汚れてしまった鋏を受け取った彼は、俺と同じように首筋にそれを宛がうと、にこり、俺に笑んで見せる。
 やっぱりどこか、何かが欠落しているような笑顔に居心地の悪さを感じつつ、それでも同じ世界への旅立ちと思えば何のことはなかった。
 意識が、遠のく。目の前が、ぐらりと揺れ、思わずベンチの端を掴む。呼吸が辛い。霞む視界に緑間が、じっと鋏を見つめている。
 さぁ、同じ世界に旅立とう。

「しんちゃーん」
「遅かったのだよ、高尾」
 霞んで白っぽく見える緑間はその場を立ち上がり、俺に一瞥をくれるとドアの方へと歩いて行った。
 再び視界が回転する。気付けば目の前には血染めのリノリウムが拡がっていて、がちゃり、部室のドアが閉ざされる音と、二人の笑い声が聴こえたのが、俺の聴覚が正常に機能した最期かもしれない。