盲目の先に広がる世界
 地元では良く知られた大きな公園にある、小高い丘。常緑樹に邪魔されて景色は殆ど見えないそこが、二人だけの場所。
 待ち合わせの日時も告げぬままボクは一人、その場所に辿り着く。案の定、ボクよりも先に着いたらしい宮地さんが、少し怠そうな右腕を挙げて、振って見せた。

     *

 うっそうと覆い茂る木陰の裏、ぽっかりとハート形に空いた隙間から、綺麗に花火が見える事に気づいたのは、一昨年の夏。
「もう、来てたんですね」
 さらと揺れるくちなし色の髪は、夕陽を受けて金糸となり、彼の頬をさらった。
「おう、何か久しぶりだな」
「そりゃ――1年も経ってれば、ですよ」
 ぽん、と自らが座る隣の芝を叩けば彼は、静かに笑んで、そして笑みを湛えたまま、前を向く。その真っ直ぐな視線に誘われるようにしてボクは、彼の隣に腰掛けた。
 朝露はどこへやら。すっかり水気を無くした芝生がボクの手の平をつんと突いて、少しの痛さとくすぐったさが、彼に恋をしたあの頃のボクの心に、少し似ていた。
「どうだ、調子は」
 ハート形の隙間には、すでに夕陽は通過し終えてしまったらしく、ぼんやりと橙を呈する空が見えている。そこに、二羽のカラスが羽ばたいて、一日の終わりを告げている。
「まぁ、何とかやっています。大学では青峰君と同じゼミで、何かと世話になってます。色々と相談にも乗ってくれるし、頼りにしてます」
「そっか、うまくやってるようで何よりだな」
 真直ぐ前に向けていた視線を僅かにこちらへ寄こした瞳に、俄かに疎外の切なさを汲み取り、ボクの胸はぐっと押し潰されるような気持ちに苛まれる。
「すいません、何か、こんな嬉々として話す事じゃ......すいません」
「いいんだよ、お前が元気でいれば、俺も嬉しいし? 青峰って何かと頼りになりそうで、前からいい奴だって聞いてたし」
 目の前を、赤蜻蛉が二匹、風に揺蕩うように飛んでいる。風が凪いで、芝生が微かに揺れるのを感じてか、ふわと浮き上がり、二匹はぽっかりと空いた橙色のハートの中に、すっぽりと収まった。
「もうすぐ秋がきますね」
「そうだな。そしたら気づけば冬が来て、あっという間にお前は社会人だ」
「そんな! ボクなんて就職しないでニートまっしぐらであの、全然、すいません!」
 ボクの拙い言葉にあっけらかんと笑った宮地さんは、ボクとは反対側に置いてあったらしいコーラのペットボトルに手を伸ばし、赤いキャップを捻じった。すっと、空気が抜ける音。同期して、二酸化炭素が空へと逃げて行く。
「お前は何でもできる、器用な奴だ。どこに行ったって重宝されるし、誰にだって好かれる。自信持てよ」
 その言葉の切れ端に、ずんと重くなる心。ボクは器用でも何でもない。誰にも必要とされない。それでも良いと思っていた。何故ならボクは――。
「誰にでも好かれる人になんてなりたくない。ボクは、宮地さんに好かれていたい。あなたに、必要とされたい」
 コーラを一口含むと、小さな溜息をついた彼は、それこそ溜息みたいに小さく笑ってペットボトルを傍らに置く。丘の斜面に耐えきれなくなったボトルはころんと転がって、水面がゆらゆらと揺れていた。
「どんな言葉よりも嬉しいよ」
 瞳に湛えた笑みは優しくて暖かくて、手の平に掴みとってずっと見ていたい、そんな美しさがある。思わず伸ばしたボクの手を彼は、諌めるように制して、ごめん、と呟いた。
 二匹で飛んでいた赤蜻蛉は、いつしか一匹になっている。ふいと吹いた夕凪が後押しするのか、不規則にふわふわと揺れる蜻蛉は、ハートの中を行ったり来たり、所在無げに飛んでいる。
「俺だって」
 刹那視線を移した、くちなし色が零れ落ちそうな瞳は、不安げにゆらり揺れていて、風に揺蕩う赤蜻蛉に、どことなく似ている。
「俺だって、ずっと一緒にいたかったよ。でももう、過ぎた事。お互い、そういう運命だったって思うほか、無いだろ」
 芯の通った言葉とは裏腹な彼の瞳の潤みを、ボクが見逃すはずが無かった。
「宮地さん......」
 眉尻を下げ、少し困ったように笑う彼の目尻に、夕闇でさえ輝かす何かが、震えている。
 ハッと息を飲むような美しさ、儚さに目を奪われた瞬間、ボクの視界もいびつに歪み始めた。
「泣くのはもう、やめた筈だ」
「分かって――ます。泣きません、から」
 俯き、一つ大きな瞬きをすれば、下目蓋に大きくたまった潤みは押し出され、ボクの膝にぽた、と落ちた。デニムの繊維を伝って広がったボクの悲しみは、去年よりは少し、薄くなっただろうか。
 それからボクは両手を頭に添えて、芝生に仰向けた。空の橙は消え失せ、そのほとんどを藍色が占めていた。目を凝らして分かるぐらいの小さな星が二つ、瞬いている。
「また、来るよ」
「もう、行っちゃうんですか」
「あぁ、そろそろ、な」
 彼が長い人差し指をぴんと立てると、風にゆらゆら揺られていた赤蜻蛉が羽を揺らしながら、指先にとん、と止まった。最期の悪あがきみたいに夕陽が残していった橙がつくるハート。そこに、宮地さんの人差し指と赤蜻蛉が、すっぽりと収まっていた。
「来年もまた、同じ日に、ここで」
「はい――。必ず来ます。だから」

 忘れないでいて。

 眩しくもないのに、手の甲をまぶたに乗せる。暗闇に覆われた視界の中に、美しい金糸を揺らす宮地さんが立ち上がり、芝生の丘を降りて行く。その背中を、ずっと追いかけて、追いかけて、しかし気付けば彼を、見失っていた。

 胸を震わせる音に、パッと見開いた瞳。そこに飛び込んできたのは閃光と、光の雨。硝煙が風に流れ、鼻腔を刺激する。
 傍らに転がったペットボトルには、二匹の赤蜻蛉が仲良く並んでいる。
 彼の姿はもう、どこにもなかった。

 今年もこの花火を、彼と見付けたこの場所で、彼と見付けたハートを透かして、彼の存在をどことなく感じながら見る事が出来る幸せと、彼の温もりが消えてしまった寂しさを感じながらボクは、芝生をぎゅっと握りしめる。
 涙の向こう、滲んだ花火は一際、美しく目に焼き付いた。

 愛は盲目、なんて言うけれど、盲目的に愛しているからこそ、そんな自分にしか見る事が出来ない物があるのかも知れない。実体のない彼。一年に一度、心だけが舞い戻る。

 今年も夏が、終わりを告げようとしている。