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 妹が誕生日に強請った、桃色の宝石。揺蕩うのは甘い香りの蜜。網目をすり抜けたミストが人肌に触れると、37度の微熱でふわり、蒸発する。
 イヴサンローランのベビードール。
「こんなものが欲しいのか」
「だって恋愛運上がるっていうし、みんな持ってる」
 そんなことを確か、言っていた。
 それから毎日彼女は、ロココ調のトレイの上に置いた香水を首筋に振りかけるようになった。

 だから知っている。この匂いがまさに、ベビードールの香りだと言う事を。
 愛するあなたの身体から、女性ものの香水が香る事が、何を意味するのかを。

「緑間ァ、早くセックスしようよぉ?」
 二人で使って一年が過ぎようとしているロングサイズの布団に座り、ひらひらと振ってみせるのはコンドームの袋。
「だから宮地さん、今日は話があるって」
「いいじゃん終わってからで! 先にセックスしてくんないと、おれの後ろが閉まっちゃうぞ?」
 そう言って、ふざけているにしては随分と強い力で、俺の腕を引っ張った。グラリとバランスを崩せば刹那、彼の胸に飛び込む。
 ベビードール。
「やっぱり宮地さん、今日は」
「ほら、もう俺の、硬くなっちゃった」
 その場所に導かれた俺の左手は、暖かく硬質な膨らみに辿り着く。
「お前のここだって、ほら」
 すっと撫で上げられた部分から、腰にかけて電撃が走った。ひくっと動いた身体に宮地さんは、少し悪戯そうに笑うと、俺を強く抱き締める。
「緑間、愛してる」
 その言葉の真偽をはかる、香水の香り。結果は明瞭で。
「宮地さん、でも、んっ!」
 突として塞がれた口の中には遠慮のない舌が舞い踊り、絡め取り、吸い取られる。脳髄を駆け抜ける快楽に、瞑った瞼の裏側が、白と黒の明滅を始める。
 宮地さんの味は、いつもと変わらないもので、宮地さんの抱き心地はいつもと変わらないもので、蜂蜜色した髪も、黄金色の瞳も、白く滑らかな肌も、全部いつもの宮地さんで。
 だから唯一のイレギュラーが、許せなかった。
 なのに、身体は欲望に正直で、気付けば宮地さんの後ろを慣らしている最中だった。
 あぁ、何をしているんだ、自分は。
 萎える事なく天を衝く勢いのそこを彼の後ろに当てがうと、力一杯押し付けた。粘性のある水音と、押し殺しても漏れ聞こえる彼の喘ぎ声。息を詰め、何だか苦しそうにも思える彼に向かって俺は、心の中で「ざまあみろ」とでも言ったかもしれない。

「緑間、すんげぇ良かった。お前とのセックス、ほんっと好き」
「宮地さん......」
 ほのかに纏うその香りを、脱ぎ捨ててはくれませんか?
 そう、口に出した途端、全てが音を立てて、全てがガラクタみたいに、全てが無意味なことみたいに、崩れ去ってしまうような気がして、彼の名を呟くことが精一杯だった。
 背に手を回し、抱き締める。それはきっと強すぎる程。
 人よりも少し大きな掌も、「綺麗」と撫でてくれる翡翠色の髪も、36度に届かない低い体温も、絡まり合う脚の硬さも、あなたを貫く高い温度も、精を吐き出す身体の振動も、俺を構成するすべてのものを、覚えていて、宮地さん。

 腕の中で寝息をたて始めた宮地さんに枕を充てがい立ち上がる。着替え、予め用意しておいた旅行鞄を腕にかけると、タオルケットの下でもぞと動く彼。
「みどりま? コンビニ」
 まだまだ寝足りない重い瞼に、これまで幾度キスを落とした事か。眠たげな甘い声が好きだった。
「ええ、コンビニに」
 涙を隠すのに眼鏡は便利なもので。そもそも寝起きの彼に、俺の涙など見えていない。
「ん。早く帰ってきて」
 再び瞼を落とす彼に、終ぞ返事をする事無く、玄関へと向かう。
 二つ並んだスニーカーを揃えるのが好きだった。もうここに、俺の靴は並ばない。きっと華奢なハイヒールが鎮座するのだろう。
 玄関ドアを開けて、後ろ手に閉める。
 蒸せるような湿気のせいなのか、涙が重くなって、頬を伝う。
 もう眼鏡では、隠しきれなかった。
 諦めの悪い俺は涙と共に流れ出し、刹那、急激な嗚咽が込み上げてきた。

 さようなら、愛したあなた。