太陽と空の境界線
 桐皇との練習試合が行われたのが昨日の事。試合後のロッカールームに、意外な人物が訪れた。
 呼び出されて部屋のドアを抜けるとそこに、申し訳なさそうに肩をすぼめて立つ、桜井良の姿。
「み、緑間くん! あの、もしよかったら、LINEを教えてもらえ......スイマセン! ボクみたいなクズ虫が緑間君のLINEなんてアレですよね、スイマセン帰ります!」
 恐縮している割には、通路に響く彼の大きな声。動揺する俺を見ても彼は、そこから動こうとはしない。声が漏れ聞こえたのか何なのか、高尾が飛び出してきた。
「なーに真ちゃん、桜井君の事いじめてんの?」
「な! 人聞きの悪い。俺は何もしていないのだよ」
 スイマセン! を連呼してふり乱した髪は乱れて、頬に張り付いている。謝りながらもそこにとどまり続ける彼の真意がわからなかった。
「LINEぐらい教えてあげたらいーじゃん、ね、桜井君」
「は、ん、え、はい! 教えて貰えたら、迷惑じゃなければ」
 別段迷惑など感じていない。しかしなぜ俺なのか。皆目見当もつかない訳で、迷い犬みたいに濡れた瞳で俺を見上げる桜井に、問いかける。
「何で、俺なのだよ」
「ふぁ、ファンなんです。ずっと緑間君のファンだったんです、だから」
「いーじゃん真ちゃん、減るもんじゃねーし!」
 そう言って俺の手から黄緑色の携帯電話をすっと抜き取った高尾は、勝手知ったるという風にサクサク操作し、「ん」と桜井に何かを提示している。
「おい、高尾!」
「何、不都合でも?」
「いや、別に」

 翌朝からだ。俺のLINEが頻繁に通知を始めたのは。

『今日のラッキーアイテムは白いシャツですよ。良かったですね、毎日着てますもんね!』
『これから部活ですか? 部活中も白いTシャツを着てくださいね』
『おかえりなさい! 部屋着はグレーですか? 是非白いシャツをお勧めします!』

 ふと見た俺のシャツは、グレーだった。まぁ、部屋着なんて草臥れたグレーのTシャツが世の中のデフォルトのような物だから、別段気にする事ではないのだが。
 俺の行動を逐一把握しているかのようなタイミングで送られてくるLINEに少し、戸惑った。あいつだって学校に通っているし、部活だってやっている。
 偶然の一致であろうと、然程気にせず、御座なりな返信をする。
『今日はグレーしかないのだよ。朝練で朝は早いんだろう、早く休め』
 噛み殺した欠伸を飲み下し、ベッドライトをオフにする。窓から見えるのはきっと三日月で、しかし眼鏡を外した俺から見れば、月の輪郭は夜空に溶け出し、気付いたら消えてなくなるのではないかという焦燥感に駆られる。月を見ていると不安は増して、俺は強制的に視界を遮った。
 真っ暗になった目蓋の裏に、一瞬だけ鋭い閃光が煌めいた。携帯の通知ランプが大仰に光ったらしい。しかし俺は目を開く事無く、そのまま眠りに就いた。

     *

『眼鏡を外しても、素敵ですね』
 朝いちばんでLINEを開けばそこにある、桜井からの一言。昨晩、寝入りばなに送られてきたものだ。
 窓から差し込む朝日は痛い位に強くって、随分と室温も上がっている筈なのになぜか、背筋にすっと冷たい物でも入れられたような、居心地の悪さを感じる。
『今日のラッキーアイテムは玉子焼きですね。早起きして頑張りました!』
 おは朝占いは、朝の放送のうちで3度、繰り返される。それの初回でも見たのだろう、俺がおは朝占いを見るより先に、ラッキーアイテムが知らされる。早起きして頑張ったというのは、早起きをして初回を見た、という事なのか。

 エナメルを下げて玄関扉を開ければ、眩しい日差しに目が眩む。少し瞬かせれば、俄かに輪郭が見えてくる、高尾と自転車、リアカー。
「真ちゃんおはよ」
「おはよう」
 当たり前の様にリアカーに乗り込み、座る。高尾は、持っていた紙袋をこちらへずいと寄こした。
「何なのだよ」
「ん? さっき駅前で桜井と会ってさぁ、これ真ちゃんに渡しといてって」
 白い紙袋の中身は、緑を基調としたペイズリー柄のナフキンに包まれている。出発するリアカーに揺られつつ俺は、その中身を確認した。
 タッパーに詰められた、玉子焼きだった。
「高尾、桜井はどんな生活をしているのだよ」
「んぁ? 何で」
 車用信号が赤に変わると高尾は、俺の方をすっと振り向く。手にしていたタッパーをずいと差し出すと「玉子焼き?」そう言い、手を伸ばした。
「んまい。ってかこれ、あいつが作ったのかな。超うまいんだけど」
「そういう事じゃないのだよ高尾。あいつだって朝練があるだろうし、俺のラッキーアイテムを調べて俺に差し入れをするような」
「いーんじゃないの? だって真ちゃんのファンなんっしょ?」
 大して関心もなさそうに黒髪を揺すった高尾は、緑を示した車用信号を確認すると、当たり前のように自転車を漕ぎ始めた。
 気にし過ぎなのだろうか。桜井からの好意として、受け取っておけば良いのだろうか。白いタッパーのふたを閉めて紙袋へ戻す。
「高尾、これをあいつにいつ、返却すればいいのだよ」

     *

 それからも連日、朝のおは朝占いに関する桜井のLINEは続いたし、昼、夜、就寝前、まるで監視しているかのようなピンポイントのLINEも、続いている。ただ、現実問題として彼が俺を監視する理由はなく、時間だってない筈で。ただの偶然の一致が偶然にも数日続いている、という理解でいる外、なかった。


     *

『おはよう、緑間君。今日のラッキーアイテムはネイルだね! ボク、頑張るから』
 ネイル、と聴いてピンと来る訳も無く、高尾に訊いてやっと理解をする。
「マニキュアってやつっしょ。妹ちゃんに借りたらぁ?」
「いや、マニキュアなら途中のコンビニでも買えるのだよ。でも、桜井が......」
 動き始めたリアカーからの声は、高尾には届きにくいらしい。
「はぁ?」
「何でもない。どこか途中のコンビニに寄るのだよ」
 少し声を張ってそう言えば、自転車のハンドルから片手を離した高尾がひらり、右手をあげる。俄かに自転車はバランスを崩し、リアカーは左右に揺れた。

「あれ、あの制服って桐皇の」
 高尾が指差す先、桐皇の制服を着た細身の男子生徒が立っている。栗色の髪は陽光を受けて白く煌めいて、所在なさ気に揺れている。
 リアカーから脚を降ろすと、小走りに彼に近づく。恐らくは、俺を待っている。
「桜井」
 声に振り向いた彼は、随分と嬉しそうに目を細め、「逢いたかった」確かに彼の口はそう言った。
「は?」
「いや、こっちの話です。これ、今日のラッキーアイテム」
 ずいと差し出されたのは、タッパーが入っていたのと同じ白い紙袋。一旦受け取り、俺は返しそびれていた緑のナフキンとタッパーをエナメルから取り出して、白い袋に突っ込んで突き返した。
「玉子焼き、美味しかったのだよ。ありがとう。でも、いくらファンだからといってこんな事はしてくれなくてもいい」
 桜井はそれまでに見せたことが無いような険しい顔で俺を見遣った後、ふ、と表情を緩め、笑った。
「いいんです、ボクがしたくてしてるんですから」
 突き返した白い紙袋の中に左手を突っ込んで、その中から小さな小箱を取り出した桜井は、「今日のラッキーアイテム」そう言って俺の目の前に箱を差し出す。ちらと見た指先に、肌色の絆創膏が見えた。
「もう、買ったのだよ」
「でも、折角ですから」
 突き返そうとするのに彼は受け取ろうとせず、逃げるように走り出す。
「気に入って貰えると嬉しいです!」
 周囲の生徒が皆、振り返る程の大きな声でそう言うと、手を振って走り去って行った。
「何なのだよ、あいつは」
「相当好かれてんね、真ちゃん」

 板書が追い付かなかった高尾は、俺の机でノートを書き写している。ふと思い出し、今朝コンビニで買った黄緑色のマニキュアを、鞄から取り出した。
「あ、それ今朝買ったやつ? 試しに塗ってみたら?」
「バカを言うな」
「そう言えば、桜井君がくれたのは、何色なんだろう」
 突き返しを突き返され、鞄に放り込んだままだった。右手を突っ込んで中を探ると、指先に、箱の角が当たる。
「使いもしないマニキュアを......二つも必要ないのだよ」
「妹ちゃんにあげたらいいじゃん」
 高尾の言葉に薄ら頷きながら、閉ざされた箱の蓋の隙間にシャーペンを突っ込んだ。てこの原理でそれをぐっと押し下げると、ぱか、と蓋が持ち上がる。
「何色だった? 緑、に五百円賭ける」
 小さな箱の中、覗き込む。
「ひぃっ!!」
 思わず投げ出し、椅子から飛びのいた。

 床に転がって横になった箱から飛び出した白っぽい物体は、人間の「爪」だった。その端っこには、マニキュアみたいな赤い血液がじとっと、付着していた。