共犯エスプレッソ
「真ちゃん……」
「さっきから何度も。何なのだよ高尾」
 幾分怒気を孕んだような声音に思わず目を瞑る。
 ありえないじゃないか。男が男を好きになる。それだけならまだしも、相手があの堅物の真ちゃんだなんて。女すらも寄せ付けない雰囲気を醸している彼に、やすやすと心の内をひけらかすことなんて、出来るはずがない。
「何でも。リヤカー置き場、だいぶ汚れたな」
 俺の自転車にリヤカーを連結させた、通称チャリアカーは、毎日真ちゃんの家のガレージに置き、そこから俺は自転車で自宅へと戻る。入学してそう日も経ないうちに、ひょんな切っ掛けから真ちゃんを牽引して登下校するようになった。
 ガレージの汚れは、真ちゃんと俺が過ごした月日を示す愛すべき汚れ。
「ああ。今度の日曜の午後にでも、掃除をしよう。お前も勿論やるのだよ、高尾」
 へいへい、お座なりの返答を投げ飛ばし、自転車を外せばそこにまたがり、明日な、といつもの声掛けをする。
 彼は何も返事をしないけれど、踵を返し、ドアに向かう途中に必ず、テーピングを巻いた左手をひらりと挙げてみせる。それは俺が時間を掛けて巻いたテーピングで、真っ白で、ひらりと空を舞うモンシロチョウみたいで、美しく、誇らしかった。
 いつでも追いかける、翡翠色の髪と真っ白なテーピング。
 誰かのものにしたくなくて、誰にも奪われたくなくて、誰にも差し出したくなくて、だからって自分のものになるのかって事も考えたけれど、答えは出なくて。
 でも、物事を割り切って考える性格の真ちゃんだからきっと、俺が思いを告げたところでさして驚きもせず、「迷惑なのだよ」という辛辣な一言で俺の心を刺しておきながら、「行くぞ高尾」ってチャリアカーに乗るんだろう。
 それでいい。それでいいんだ。
 俺はずっと、真ちゃんを見てる。そう、彼に告げておきたいんだ。それだけだ。

ーーーーーー

 それだって、こうして見目麗しい真ちゃんを目の前にしてしまうと、喉からほんの僅か覗いた言の葉は尻込みして飲み下してしまう。
「真ちゃんてば今日はナニそれ」
「シャボン玉なのだよ」
「よくそんなの持ってんなぁ」
「おは朝を見てから速攻でコンビニまで走ったのだよ、当たり前だろう」
 異常と呼べるまでの人事の尽くし方に絶句し、苦笑を漏らす。
「恥ずかしいから、学校着くまでシャボン玉やんないでな」
 そう言い終えるが早いか、夏の日差しを受けて虹色に光る透明な球体が、悠然と泳ぐ熱帯魚みたいにふわり、ふわりと微風に揺れていた。
「真ちゃんマジ……ぱねぇ」
「お前のラッキーアイテムは、オレンジ色なのだよ」
「はいはいあんがとよ」

ーーーーーー

 丸々一ページ、真ちゃんのノートを書き写さなければならないという非常事態を乗り越えて、もう10分もすれば授業は終わる。ずっと傍らに置いておいた橙色の付箋紙は、教室の天井で回る扇風機の風に時折角をぱたつかせる。なにか書けよ、そう言っているみたいに、俺には見えた。
 朝から貼りっぱなしだった付箋紙を剥がせば、わずかながら机に貼り付いた糊のカスを指で擦り落とす。手前のノートの上に付箋を貼り付け、ペンを持つ。震えるペン先を慎重に滑らせると、慎重さを覆す、形の悪い文字が馬鹿みたいに並んだ。

ーずっと、真ちゃんのそばにいるからー

 指の長さほどの小さな橙色を指に貼り付け、就業のチャイムを待った。教師の言葉を待たずしてチャイムとともに椅子が引かれ、耳障りな音が暫く響く。
「真ちゃん、俺今日掃除当番だから、先行ってて」
 俺の声に微かに首肯した真ちゃんは、鞄を肩に掛け、教室を出ていった。195センチが立ち去った席は、どことなく閑散としていて、ぽっかり孔が空いたみたいだ。
 椅子を引き、彼の机の中の一番上にあるノートに、付箋を貼り付ける。俺と真ちゃんの間柄だから、何をしているのだとかそんな面倒を言ってくる輩はいない。
 再び椅子を元に戻すと、掃除を任されている校舎裏へと向かった。
 明日、気づくか。明後日、気づくか。いつの間にかゴミになって永久に彼の手元には届かないか。
 それでもいい。彼がなんと返事をしようと、何の返事もしなくても、俺は彼のそばにいると決めたのだから。

ーーーーーー

 うだるような暑さに蝉の声。夏のお手軽セットみたいな校舎裏で、形だけでも箒を動かす。他に数人、掃除当番がいたはずなのだが、ずらかったのかもしれない。誰も来ないと分かれば、あと十分ぐらい休んで、それから教室へ戻ろうと、丁度陽が翳る場所に腰を下ろした。
 ややあって、複数人の足音とともに、ワイシャツを着崩した男が数人、歩いてくる。俺とは何の関わりもなさそうな彼らはなぜか、気づくと俺の目の前に立っていた。
「なに」
 逆光になった彼らを見上げると、眩しさに目を瞑る。顔までよく見えないけれど、何となく、誰なのかは把握した。
 彼らは顔を見合わせて小声で笑うと、そのうちの一人が目の前に何かを突きつける。目を凝らせば、それはついさっき俺が真ちゃんのノートにペタと貼った、粘着力の弱い付箋紙だった。
「しんちゃん大好き高尾くん、みんなにホモってバレてもいいのかな?」
 にわかにざわつく胸の中で、彼らの言葉をしっかりと飲み込み、返答する。
「べつに俺はいいけどー。ただ、しんちゃんに何かしたらお前ら、ただじゃおかねぇからな」
 再び顔を見合わせて下品な笑い声をたて、付箋を持った男は一歩踏み出し、俺の胸ぐらを掴んだ。
 それに関しては、怒りも何も沸かない。殴りたければ殴ればいいし、ただ殴られる言われはない。恐喝したければ恐喝すればいい。払う金はない。怖いもなしの喧嘩ほど心強いものはない。
 真ちゃんの事となれば、話は別だ。
「金払うなら、この付箋は見なかったことにしてやるよ。払わねぇなら、愛しの真ちゃん、ゴーカンしちゃってもいいんだよ?」
 咄嗟に胸ぐらを掴み返すと、バランスを崩した男は無様に頭から倒れ込んだ。俺の頭には真ちゃんを守ることしかないから、真ちゃんに危害を加えようなんて話を聞けばそれは即ち排除なのだ。
 倒れ込んだ男は後頭部を強かにぶつけたらしく、痛ぇとか、クソだとか、無意味な雑言を並べている。立ち上がろうとした男の腹部を一発、蹴り上げると、重い荷物が崩れるみたいに汚い音とともに、男は再び倒れ込む。
 周囲で見ていた他の数人は、責任切ったとばかりに走り出し、この場には汗と砂にまみれた男と、ワイシャツが透けるほどの汗をかいている俺の二人になった。 
 腹を抱えるようにして悶ている彼を見るに、そこまでやる必要性を考えるのだが、真ちゃんの名前を出されれば、平常心でいられないのだ。
 身体を起こそうとしかけている男の腹めがけて、もう一発入れようとした瞬間、目の前に見慣れない光景が拡がった。
 とは言え、今朝も見たよな、なんて馬鹿みたいに口を開いて、その光景を見守る。
 虹色に輝る球体の表面は、濡れているようで、しかし重さはなく、ふわり、ふわりと空を舞う。風なんて一切吹いていないと思っていたけれど、こうしてシャボン玉を見ると、僅かにでも空気は動いているのだと、場違いな思考に行き当たる。
 振り返れば、翡翠色が橙色の付箋を手に、こちらへと歩いてきた。
「真ちゃん、部活行ってなかったの」
「あぁ、シャボン玉を吹いていたら、やたらとこっちに流れていくから、何かと思って来てみれば」
 美しい薄紅色の唇で音もなく筒に向かって息を吐くと、真ちゃんの周りは虹色の球体に満たされて、幻想的な空間が出来上がる。全く場違いなのに、全く美しくて、目を見張る。
「停学、謹慎、その辺りだろう」
「んぁ? そだね。まぁいいよ。バスケ出来ないのはしんどいけどな」
 苦笑して見せれば、真ちゃんはふっとため息みたいに笑いながら、転がる男へと向かっていった。
 何をするのかと傍観していれば、彼の恐ろしく長い脚は一旦後方へ目一杯引かれ、その反動で前の物体を蹴り上げた。下品な叫び声とともに、男は更に小さく膝を抱えている。
「真ちゃん……」
「これで、お前と俺は共犯なのだよ」
 こちらへと、静かに静かに歩み寄ってきた彼は、右手で俺の手をしっかりと握ると、真っ白なテーピングを巻いた、俺の痕跡、俺の巻グセがある左手で、橙色の付箋を俺の手にぴたと貼り付けた。
「真ちゃん、まずいよ。真ちゃんは何もしてないだろ、俺が」
「うるさい黙れ。俺の傍にいてくれるんだろう? ここにそう、書いてあるのだよ」
 橙に視線を落とせば、ガチガチに凝り固まった文字で、そう書かれていた。
「停学中はストバスコートに通い詰めるぞ高尾。俺はつめた〜いのお汁粉、お前は冷たいエスプレッソを持って」
 行くぞ、そう言うと真ちゃんは、俺の痕跡が残る左の手で俺の手首を掴み、少し強いぐらいに引っ張って、必死で着いていこうと走り出した途端、彼の身体に引き寄せられ、気づけば額に柔らかい唇が落ちてきた。