けんすけ君の我儘と、きよし君の意地っ張り
 ホテルの窓から見える冬空は、純白の羽に覆い尽くされ、少し引きで見てみればまるで白い紙を貼り付けたハメ殺しの窓なんじゃないかと錯覚する。4階の窓から下を見下ろせば、昨晩じゃれ合いながら雪を蹴って歩いた道も、天使が舞い降りた形跡みたいに、真っ白に塗りつぶされていた。
「さみーな。部屋の中にいるのに、さすがにさみーな」
「早く服着ろよ、バカ。昨日から裸のままかよ」
「正しくは今日、な」
 清志の訂正に苦笑すれば彼もまた、蜂蜜みたいに艶っぽい髪をかきあげながら、小さく笑った。その顔が余りにも綺麗で、この手から取り零すには余りにも惜しくて、離れがたくて、足元のカーペットを蹴った。僅かに浮いた身体はベッドへと吸い込まれ、スプリングが軋む。目の前に置かれた、雪みたいに白い指を数本まとめて、握りしめる。
 喉が潰れてしまったみたいに掠れた醜い声を絞り出し、握る手に力を込めた。
「東京に帰んなよ、清志。もうちょい、いろよ。いいだろ?」
 握った手に、彼のもう片の手が覆いかぶさると、キンと冷たい室温が僅かに上昇したような錯覚に、身体がふわつく。
「明日から直前講習が始まんだよ。二人で同じ大学、行くんだろ? 確実に受かるためにはサボれねぇよ」
「じゃぁ、夕方までならいい?」
「福井、駄々っ子」
 むっとして、もたげた頭を持ち上げれば、矢庭に唇が飛んできた。
「別にさ、外国にいるわけでもねぇんだし、会おうと思えば会えるだろ?」
 やけに達観した態度が腹立たしく、あぁ、俺って恨みがましい男だと自覚はあったが自制は効かなかった。
「ずっと一緒にいてぇとか、思わねぇの? 清志さ、随分冷めてんよな」
「冷めてる?」
「だって、俺下の名前も結局、呼んでくれねーし」
 手を握ったまま、清志の腕元にゴロンと仰向くと、馬鹿みたいに豪華なシャンデリアは場違いな男子高校生二人を嘲笑っているかのようだった。馬鹿みたいに熱くなってる俺を、冷たいガラスの装飾が冷徹に見つめている。
「いいじゃん、福井、じゃ駄目なの?」
 とるに足らない事だとでも言わんばかりに視線を放り投げた清志は俺から手を離し、傍らにくしゃと丸めてあったグレーのTシャツに首を突っ込んだ。
「本気で言ってんの?」
 俺の問にもあっけらかんとした態で「おう」と目も合わせず頷いてみせる清志に、さすがにカチンと来る。
 宮地の事を「清志」と呼ぶのに3ヶ月かかった。二人の関係をより深いものにするには、絶対に必要だと思ったから、幾度と無くその名を飲み込みながらも3ヶ月経ってやっと「清志」と呼ぶ事が出来るようになった。彼のためにと付けられた「清志」という名を呼ぶ事は、彼を慈しむ事にも似て、だからこそ俺も同じ事を彼に求めた。
 しかし彼はこうだ。
「苗字だって下の名前だって、同じだろ」
 それでも諦める事が出来ず、俺と清志の間に何か「特別」が欲しくて、昨晩だって彼を愛しながら何度も何度も、彼の名を囁いた。然れども彼は頑なに「福井」と呼ぶ事をやめない。
「だって、福井は陽泉の奴らにも福井って呼ばれてんだろ? だったら福井が一番わかり易いじゃん」
「でもよぉ、他の奴らは呼ばない二人だけの呼び名の方が、俺は嬉しいんだけど」
「呼び名で何か変わんのかよ、訳わかんねぇし」
 俄に湧いた怒りの感情は、度を越すと悲しみに変化するらしく、胸の奥の方がじんじんと、感じた事のない拍動を突きつける。じわ、と鼻の奥に鋭い痛みがあって、涙の予感に瞬きを多くして耐えた。
「お前なんて、さっさと帰っちまえ」
「んだよ、さっきは帰るなって言ったくせに。何いじけてんだよ」
 俺の髪を梳く大きな手の平を、咄嗟に跳ね除ければ、狐につままれたみたいな顔で清志がぽかんと口を開ける。半身を起こし、ベッドから立ち上がると、態とらしくムスとした顔を露呈したまま身支度を整える。のらりくらりと着替えをする清志を尻目に、カーキのダウンジャケットまで着こみ、溜息をつきながら無言で急かす。
 俺の安易な下心。俺がここまで怒っていると知れば、清志はご機嫌取りにでも「健介」と呼んでくれるのではないかという、安っぽい邪心に、自分でもウンザリするのだが、それでも俺は、彼の「特別」になりたかった。

 雪国に来るには随分と軽装だった清志の首元に、橙色のマフラーを貸してやったのが昨日。俺よりもずっとずっと橙が似合う彼に、そのまま譲ってしまおうかとも思っていた、やはり駅で返して貰う事に決める。
「よし、じゃぁ帰るわ」
 大きなボストンバッグを肩に担ぐ清志の前を行く。宿泊費を浮かすために、駅から少し距離のある安いホテルに入った。駅までの道案内はせざるを得ない。フロントに鍵を返すと、自動ドアを潜った。
 さっき窓から見た天使の羽みたいな雪は一転、吹く風に従順に横殴りとなり、二重ドアの内側へと吹き込んでくる。空を見上げれば、淀んだ灰色から湧き出る白は、湧き出た瞬間に風にさらわれているようで、暗く、物悲しい景色だった。
 慣れた足取りで、駅までの道を歩く。顔面にちりちりとぶつかる雪に顔を顰め、それでも降り積もる雪を踏みつつ前へ、前へと進んで行く。背後から追う清志は、徐々に歩く音が小さくなり、俺との間に距離が出来ている。すぐにでも手を取って、手を繋いで、俺のポケットに突っ込んで、清志の足取りに合わせて、歩きたかった。
 足を止めたものの、彼に向けて伸ばそうとした腕は無意識に引っ込んで、行き場をなくした手をダウンのポケットに突っ込んだ。ふかりとしたその中は無残なほど暖かくて、変に意地を張らずに彼の手を取ってあげたらいい、もうひとりの自分が脳の片隅で指示を出す。
 俺の怒りを知れば、きっと清志も。
 酷く幼い意地が張り出て、結局俺は前を向いて歩き出す。
「福井、早い」
 風の音に半分さらわれた声は、微かにしか聞こえなくて、それでも彼の声なら聞こえない筈がなくて、聞こえてる癖に歩を緩める事が出来ない意固地な自分は、好きじゃない。

 ターミナル駅の大きな入口を入ると、耳にまとわりついた風と雪の音が急に止んで、俄に頬が熱を取り戻す。清志が東京までの切符を買いに行く間、彼の大きなボストンバッグについた雪を、何気なく叩いた。床に落ちた半透明は、さして時間を経ずして透明になり、形を無くす。全てに終りがある事を実感するようで、雪を払う手を止めた。
「じゃぁ、行くから」
 ボストンバッグを肩に掛けた清志は、笑顔というには随分遠い顰め顔で言うから、俺も無意識に同じような顔をしたのかもしれない。いや、きっと俺が無意識にそんな顔をしていたから、清志もそんな顔を見せたのだろう。
「気をつけて」
「あの、さ、福井」
 返答の代わりに俺より高い位置にある美麗な顔を見上げれば、鼻先を少し赤く染め、意味もなく目の辺りを潤ませる清志が、遠慮がちな視線をこちらへ向けていた。
「しばらく、連絡とるの、やめよう。お互い受験もあるし、なんつーか……考え方も違うような気もするし」
「……おう」
 本当は頷きたくなんて無いくせに、強がる自分が肯定を口にし、首を縦に振る。

 そんな顔をして、そんな事を言うなよ。
「冗談言うなよ」って、笑ってあしらうことも出来ないじゃないか。

「じゃぁ、そろそろ行く。元気でな」
「宮地も。元気で」
 不随意に口をついて出た彼の苗字を自らの耳に聞けば、あぁ、終わりが訪れたのだと知る。
 彼の首に巻き付いていた橙色をするりと抜きとると、その温もりは俺の首もとへと移動した。彼の匂い。彼の体温。清志の……。
 行く、と言った彼がすぐにでも俺に背を向けて歩き出してくれれば良かったのに、彼は俺が動き出すのを待つように、少し淋しげな笑みを口元に湛えている。最後の最後まで美しい彼に、瞼を伏せる事で別れを告げ、俺は彼に背を向けた。

     *

 駅のドア越しに見える外の景色は、先程よりは幾分風が弱まったようで、それでも大粒の雪は風を受けて舞っている。ドアを開けると、キンと冷えた外気が鼻腔を刺激し、どうしてか、目頭が熱くなった。
 足取りも重く、駅のターミナルを抜けると、すぐに人通りの少ない道に出る。線路沿いにある小さな公園は、滑り台の頂上だけを残し、全てが雪に埋もれてしまっている。
 雪は春になれば水になって形を無にする。
 二人が作り上げた思い出は、春が来ても形をなくす事なく、俺の心の中に残酷に居座り続け、消える事もない。

 突として響いた声音は、幾度も耳にした事のある、変声を経たにしては少し高く、甘い声。しかし聞き覚えのない言葉と、その声が響くはずのない雪景色に、耳を疑った。
「けんすけっ」
 足を止め、振り向けば、膝に手を突き仄白い空気を吐出しながら肩を上下させる清志が立っている。
「何して……」
「良い訳ねぇだろ! 何で引き止めねぇんだよ、考え方が違うから何なんだよ、お前と一緒にいられない理由になんてなんねーだろ! 名前を呼べば俺と一緒にいてくれるなら、俺、何度だって呼ぶよ。健介、健介って、四六時中呼ぶよ。だから……」

 一緒にいて。

 二人の声がユニゾンみたいに、風の中を貫いた。
 無意識に自らの首もとへ遣った手は橙色を掴んでいて、するりと引き出したそれを、四歩踏み出して届く彼の首へと巻きつける。口元まで埋まった彼が少し首を伸ばして、形の良い唇が外を覗く頃、彼の口角はぎゅっと上を向いていた。
「新幹線、いいのかよ」
「切符、買ってねぇし」
「予備校あるんだろ?」
「1日ぐらいサボったって俺、出来る子だし」

 だから……。

 痛い程の勢いで俺に覆い被さってきた彼の力に負け、バランスを崩した俺は、背中から雪へと突っ込んだ。思いの外、雪は暖かく、俺と、俺に抱きついた清志をふんわりと包み込む。

「だから、もうひと晩。一緒にいて。けんすけ」

 俺を見下ろす彼の周囲には、風に舞った純白の雪が舞い踊り、時折彼の頬にぶつかっては、形をなくしていく。
 ほの朱く染まった頬を両手でしっかりと包み込み、寒さに震える薄い唇に、再会のキスをした。