2月の深海
 既に練習試合を終えた後、あれほどまでに熱気で満ちていた空間は、ボール数個分の跳ね音とバッシュが床と交錯する音だけが響くに至った。動き続ける蜂蜜色は、暗幕を取り去った二階席の窓から射し込む夕日を照り返すには十二分で、ボクはその眩しさに時折、目を細める。第二倉庫と書かれた小部屋のドアは、ストッパーがイカれているのか、代わりに跳び箱がドアを支えている。ボクはその跳び箱に座り、ぼんやりと彼の背中を目で追っていた。
 と、雷鳴が轟くように腹に響く音は、体育館の重い引き戸を引く音で、扉の隙間から顔を出したのは、先程まで緑間君とシュート練習をしていた高尾君だった。
「宮地さんがラストですってー。鍵、置いときますよ」
 彼はボクに向かって一度、鍵を投げるような仕草を見せ、慌てて手の平を椀型に形作ったボクに、二度目はしっかりとそれを投げてきた。
「可愛い恋人ちゃんがお待ちかねっすよー」
 見れば、こちらを振り向いた宮地さんは高尾くんに向けて中指を突き立てる。ケタケタ笑う高尾くんは「じゃ、またな」軽く手を振って、ボクの会釈に目もくれず、誰かを呼びながら消えていった。
 意味もなく制服のネクタイを緩めたり締めたり。彼の自主練習を眺めていると言っても、まさかずっと見惚れ続けているわけにも行かず、次第に手持ち無沙汰にもなるわけだ。跳び箱から数十センチ向こう側に向かって飛び降りると、第二倉庫の中に顔だけを突っ込んでみる。コンクリート打ちっぱなしの壁から、秋とは思えない冷やりとした空気が滲み出ていて、どこか澄み渡っているようにも思えるその空気で深呼吸をする。使わなくなって角が錆び付いた得点板と、これもまた使わなくなったマットが二つ折りに捨て置かれ、それだけで床は埋まってしまっている。目の高さには、幾つかのフックがL字に伸びていて、何種類かの鍵が、飾り気のない原色のネームプレートと共にぶら下げられていた。
 斜め天井になった第二倉庫は狭く、暗く、乱雑な印象で、鍵置きとしてしか利用されていないのだろう、そう思い至る。
「桜井、どこ行った?」
 ひょこと顔を出せば、水色のフェイスタオルを首に掛け、額を拭っている。
「スイマセン! 勝手に中入ってスイマセン!」
「別にいいよ、何もねぇし、きったねぇだろ?」
「汚いって事はないですけど......」
 言葉を切ると、頭の中で散らばる単語を掻き集める。
「狭くて、鼻の中が冷たくなります」
「は?」
 怪訝げな顔でそう言う宮地さんは、転がるボールを次々籠へと投げ入れ、あっという間にボールの山ができた。慎重にボール籠を押す姿を眺めつつ、ボクは手の中にあった鍵を上方へ投げてはキャッチし、もてあそぶ。出しっぱなしてあった、まだ綺麗な得点板も、宮地さんが全て片付け、第一倉庫の扉を閉めた。
 それからボクが立つ第二倉庫前までバッシュを鳴らして歩いてくると、きっとボク目掛けて歩いてきたんだろうという高揚感はすぐに廃棄され、ボクを通りすぎて第二倉庫の中へと入っていく。
 並んでいる鍵から一つを手にすると、再び第一倉庫へと歩いて行った。なんとなしに気分を害されたボクは、再び跳び箱に飛び乗ると、自然頬が膨らみ始める。突き出た唇とむすっとした顔に、宮地さんはボクを構おうとしてくれるだろうか。
 期待とは裏腹にボクの顔も見ずに目の前を通り過ぎた宮地さんの練習着の裾を、ぎゅっと掴む。
「構って、ください」
「鍵置いたら終わるから待ってろ」
「今すぐ、構ってくれないとボク、死にますよ」
 恨めしげな目つきで彼を見遣ると、困ったという態で頭を掻く宮地さんは、ボクの髪に手を伸ばすと指を挿し入れた。
「よし、じゃぁ終わったら俺んち来るか?」
「今、す、ぐ、ですよ」
 んな事言われたってな、ゴニョゴニョと言葉を濁しながらボクを振りほどくと倉庫へ入り、鍵を置いた宮地さんを、ドアの所で両腕を拡げ、とうせんぼ。
「おいおいおいおい、今日は随分と機嫌悪いな。生理か?」
「構って欲しいだけです。折角練習試合が終わるの早かったのに、すぐ自主練しちゃって、ボク放ったらかしで。今すぐ、ボクを構って下さい!」
 頬を掻き、眉根を寄せる宮地さんは少しだけ屈んで、ボクの唇をちょっとだけ吸った。
「これでいい?」
「不満」
 精一杯腕を後ろに伸ばし、行き当たったドアノブを力いっぱい引くと、刹那、空気に圧迫される。ボクと宮地さんだけの小さな空間が出来上がった。瞠目する彼の腕を引き、半折になったマットに無理矢理座らせる。その上に跨ると、彼はやれやれといった態で額に手を当てた。
「何だよお前、倉庫で発情すんなよ」
「だって構ってくれないんだもん!」
「構ってくれないと発情するって、どんなマゾだよ」
 これ以上軽口を言わせんとばかりに唇に吸い付けば、促してもいないのに生温い舌が絡み合う。なんだ、宮地さんだってまんざらでもないビッチ。そのまま少し強く押し、倒れた宮地さんの上に跨がり直すと、両の手で彼の手首を掴む。手の平の中で、小さく細かく動く脈が触れる。
 彼の手首を上方に固定しつつボクは、首元のネクタイをスッと抜き取った。こんな事もあろうかと、片手でネクタイを抜き取る練習を毎日していた甲斐があった。何かを感じ取った宮地さんは身体を捩ってボクから逃げようとしたけれど、ボクは知っている。彼は上顎と刺激すると力が抜ける事を。
「ふぁっ! んっ......」
 隙を見て、ケーキのリボンみたいに赤く巻きつければその端を、壁から飛び出た輪っかに通して固定してみた。これがなかなかどうして具合良く、宮地さんは諦めがついたのか暴れるのをやめた。

「なぁ、俺の部屋で良かったんじゃね? 何で倉庫なの?」
 マットを一枚敷き詰めれば一杯になるこの狭い部屋に宮地さんはご不満なのか、そんな事を漏らす。だけどボクには、この狭さが堪らなかった。狭い空間に二人きり、ボクと宮地さんの吐息によって成る空気を、二人が再び吸い上げるなんて、素敵なオナニーじゃないか!
 練習着をまくり上げると、傷ひとつ無い肌が目に飛び込む。目立つ桃色を口先で啄めば、反った身体は魚のようで、その反応が嬉しくて幾度も同じ刺激を与える。
「待って桜井、何度もやったら痛い」
 思いの外歪んでしまった口元で笑みを返せば、宮地さんは諦めたような顔で力を抜いた。
 肌と殆ど同化する程しか生えていない、脇の金糸に舌を這わせる。身を捩る宮地さんを逃がすまいと、全身を使って固定した。少し酸味があって、どこか苦味もあって、これが宮地さんの身体から出てきたのだと思うと汗の一滴も愛おしく、ボクは宮地さんが纏う汗の一滴もムダにしないよう、上半身の隅々まで舌を這わせた。
「マジ待って、くすぐったいから!」
「宮地さん、くすぐったいと勃起するんですね」
 下半身に手を這わせればそこにある突起はさっきから、ボクの股間に押し当てられていた。
「くすぐったい、と気持ちいい、の境界線なんて不明瞭なんだよ、だからもうやめて!」
 下方にある窪みを抉るように舌を差し入れると、それまでケタケタと笑っていた宮地さんの声が、突として女みたいにエロくなった。ボクの唾液を窪みに貯めるみたいにしっかりと湿らせた舌で上下に刺激してやれば、身体から息が抜け出るような声を漏らす。
「臍、気持ちいんですか?」
「ん、何か超気持ちい、頭おかしくなりそ。もっと」

「ハァ......んぁっ、ちょ、もうちょっと慣らせ、ハァん!」
 宛てがった後孔に少しずつ荷重を掛ける。先端を掴み、弧を描くように動かしながら、少しずつ、少しずつ。暗く細い道の先が開けるまであと少し。最奥に到達する寸での所で、ボクの聴覚が異変を捉えた。
『あんれぇ、宮地さん達いねーなー』
『ジュースでも買いに行ったのだよ、きっと』
 よく響く高尾君の声の後、少し聞き取りにくい低音は緑間君。何か用事があって戻ってきたのかもしれない。
「やべぇよ、すぐ抜け、桜井!」
 小声で焦る宮地さんにボクは精一杯の笑みを零し、ついでに零す「イヤです」。にわかに怯えた表情を見せる宮地さんは、何を怯えているのだろう。
「声、出さないでくださいね。あ、でも声が出ちゃう位気持よくしちゃったらスイマセン」
 中程に存在していたボクをぐっと挿し込むと、最奥に当たったそれはまるでスイッチを押したかのように、宮地さんの声を誘発した。
「アッ! んぁっ! やっべーからやめよ? やめようぜ桜井」
 それでもボクには止める気はなく、この状況を楽しもうと自我を持ち更に膨張したボクの中心に、正直に従うべきだと判断する。傍らに捨て置いてあった水色のタオルを丸め、彼の口に捩じ込むと、少し腰を引き、全力で押し込んだ。
「はンッ! んっんっ、んー、ぁん......」
 それでも漏れだす声に、ボクは人差し指をぴんと口元に立て「しーっ」と子供を諭すように伝えるが、宮地さんは首を左右に振りながら、嬌声を漏らす。うっすら桃色になった彼の上半身に手を這わせ、敏感な突起を抓るように弄べば、腰をよじった宮地さんが苦悶の表情を浮かべた。
「宮地さんスイマセン! キスしたいんでタオル外しまーす!」
 高尾君と緑間君はまだ、体育館にいる気配がある。もう何を話しているのかまでは掴めなくなるぐらい、ボクにも快感が押し寄せているのだが、宮地さんはボクの存在すら忘れてしまう程度には快楽に溺れている目つきをしている。
 さっとタオルを取り去り一つ突くと、急激な高波の様に宮地さんの声が飛び跳ねた。咄嗟に彼の口にしゃぶりつく。
 唇と唇が合わさる間際の空白に、宮地さんから漏れ出した声が響き、ボクはそれを押しとどめようと必死で、キスの間隔を狭くする。息が苦しい程のキスを繰り返すと、脳の中がじんわりと痺れる感覚に陥る。ランナーズ・ハイにも似た高揚感に押されボクは、まるで機械仕掛けのように腰を振りながら宮地さんの喘ぎ声を唇で吸収する。それはさながらテトリスのようで、宮地さんの形に合わあせてボクは、ヒステリックな程に彼の上下を塞ぎ続けた。

「あぁ......マジビビった。あいつらまだ帰ってなかったのかよ」
 すっかり夕日が沈み、暗闇に覆われた狭い部屋、ボクは宮地さんの胸に耳を寄せて脱力していた。
「ねぇ宮地さん? テトリスハイって知ってます?」
「何それ」
 彼が口を開く度、耳のずっと奥が震えるように鼓動を伝える。心地よさに目を閉じる。
「テトリスをずっとやってるとね、何でもテトリスの駒に見えてきて、頭のなかで勝手にテトリスを組み立て始めちゃうってやつです。脳が興奮状態になるんですよ」
「それがどうかしましたか?」
 少し小馬鹿にしたような口ぶりに、ボクは宮地さんの乳首をはむっと甘咬みした。
「ボクはこの狭い部屋の中で、テトリスの駒みたいに宮地さんと隙間なく重なり続けたいんです」
 少し赤くなった手首を擦りながら宮地さんは笑った。
「お前、隙間なく重なったら、消えるぞ」
「あ、そっか」
 暖かな手の平が、ボクの髪をすっと梳く。温度は頭から吸収され、全身に行き渡る。俄に肌寒くなった小部屋の温度は、二人の体温で保たれている。目に見える彼の汗を、水色のタオルで拭きとった。
「でも、ボク、宮地さんとなら消えてもいいですよ?」
「ヤンデレ」
 ぺち、ボクの額がやさしい手によって弾かれる。
「スイマセン! でも、ホントの事で、あの、スイマセン!」
「泣くなよおまえ......」
 気づくと下瞼にじりじりとした感触があって、鼻の奥がツンと痛くて、涙が浮かんでいた。
「あれだ、消えそうになったら、ポーズしちまえばいいんだよ。ポーズして、電池抜いて、永遠に重なってりゃいいだろ?」
「随分乱暴ですね」
 それでもボクは嬉しくて、宮地さんが言う「永遠」という言葉の重みは良く分からないけれど、どこかくすぐったくて、彼の胸に当てた耳のすぐ傍まで流れ落ちた雫は、彼の胸にもじわりと滲んだだろう。手近にあった水色のタオルで、ぐっと目尻を拭った。