ひと月
 彼がボクの目の前に再び現れることは、永遠にないと信じて疑わなかった。

     *

 あの日ボク一人を置いて去ってしまった彼が、ふと視線を向けた玄関ドアのこちら側で、少し寂しそうに微笑んでいるのを見てボクは、がくりと膝から雪崩落ちると拳を握りしめ、近所迷惑を憚らず大声を上げて泣いた。
 それは暑い夏の日で、彼が去って行った雨の日から数えてちょうど、ひと月に三日ほど足りない金曜日の夜の事。
 翌日、ボクの膝小僧には赤黒い大きな痣が、下手くそな目玉焼きみたいに拡がっていて、人差し指で押してみると確かに痛みを感じたから、これは現実に違いないと確信した。

     *

「桜井、お前少し痩せたな」
 アウトレットショップで一緒に選んで買った、深緑色のクラシックなソファにお行儀悪く寝転ぶ宮地さんは、仰向けになった腹に纏わる空色のシャツをパタパタとはためかせ、風を送り込んでいる。
 彼の言うとおり少し痩せた。筋肉が削げ落ちた二の腕に手をやり、ぎゅっと握る。ここにあったはずの硬い筋肉は、僅かながら解け出してボクの血液の中を栄養で満たそうとしたけれど、それでは足りなかった。そう思う。それぐらいボクは、食事が喉を通らず、みるみるうちに頬がこけた。
「当たり前じゃないですか。だって宮地さん、突然ボクの目の前からいなくなっちゃうんだもん」
「もう、会えねぇと思った?」
「誰だってそう思いますよ、あの状況じゃ」
 空調が効いた室内でも、窓から差し込む日差しで室温は上昇し、グラスに注いだ麦茶は、だらし無く結露を垂らす。ボクは無性に喉が乾いて、気づけば氷だけがガラスをノックする。つまりは麦茶は空っぽになっていた。対して宮地さんは、喉が渇いていないのかも知れない。コルクのコースターには結露ばかりが茶色い水滲みを作っている。
「で、一体どうして、急に戻ってくる気になったんです?」
 一つ、大きく伸びをした宮地さんは、欠伸の尻尾がちょっとだけ混じったような声で言った。
「言い忘れた事があったから、来た」
「言い忘れた事? 何ですか?」
 音もなく半身を起こすと彼は立ち上がり、陽光が射し込む窓辺へと歩いて行く。まるで彼の身体が光を透過するように、眩しい光に彼が包み込まれ、現実から遠い次元に飛ばされた感覚に陥る。瞬きをすれば、こちらに向き直った彼が、はにかんだように微笑んだ。
「時が来たら言うよ」

     *

 昨晩、約ひと月振りに宮地さんの顔を見てから、ボクのお腹はスイッチが入ったようにぐるぐる音を奏でている。何か作ろう、そう思い、キッチンの小さな冷蔵庫の中を覗きこむ。そこには空虚が顔を見せ、これといってまともな食材は残っている筈がなかった。青峰君が差し入れてくれたコーラが一本。麺つゆ。
「冷やし中華の材料買ってくるんで、宮地さんは留守番しててくださいね」
「俺の分は、作らなくていいからな」
「何でですか、作りますよ」
 何か口籠ると彼は、諦観したように首を縦に振る。それを合図にボクは、冷やりとしたドアノブを回し、熱気に包まれるアスファルトを踏んだ。
 三十分程経って帰宅すると、付けっ放していたニュース番組は下らない昼のバラエティ番組に移り変わっている。
「チャンネル、変えていいですよ」
「見てねぇし、消していいよ」
 結局、一口もつけなかった麦茶のグラスを回収する。既に結露すらしなくなったグラスに、再び氷を落とすと、麦茶を注ぎ入れた。どうせ飲まないんだろうな、そう思いつつ。
 この部屋の狭いキッチンで、二人並んで食事を作る事が、ボクのささやかな楽しみだった。笑いあった日々を想起し、胸の奥に鉛のような重さを感じる。
「もうメシ、作んの?」
「あ、ボク、やりますから宮地さんは座ってて下さい」
 しかし宮地さんはボクの言葉なんて耳に届いてないみたいにあっさりと、キッチンに立った。壁に背を預け両の腕を組んで、決して手は出さないけれど、「トマトは串切りにするな」「卵は甘くするな」「タレは全部入れるな」結局宮地さんがかつて好んだ冷やし中華が着々と出来上がる。
 半透明の皿にこんもりと盛った冷やし中華を、苦笑交じりにテーブルへと運ぶ。
「何笑ってんだよ」
「す、スイマセン」
 二人前をひとつの皿に盛って、突ついて食べるのが二人のスタイルだった。宮地さんはボクの後ろをついてきて、「だから俺の分はいらねえって……」もにょもにょ、尻切れトンボの声を出す。
 彼がいなくなってからも捨てられずに、引き出しの奥に保管しておいた、色違いで買った箸を二膳、テーブルの対面へ置くと、態とらしく吐いた小さたな溜息とともに降りてきた彼のぎこちない笑顔に向けて「食べましょ」声を飛ばす。
 宮地さんの目の前に置いたリモコンでテレビを消すと雑音が消え、それまで気にならなかった蝉の声が一気に増幅された。
「もう、セミが鳴いてんだな」
「宮地さんと別れたあの日は、まだ鳴いてませんでしたよね」
 取り皿に麺と具材を取り分ける。形よく盛ったそれを彼の目の前に差し出すと、困ったように眉根を顰めつつも「ありがと」呟くみたいに言った。

(サンプルです)