VOICE
「一体今までどこに行ってたんすかぁ! サークルも来ないで」
 少しやつれたようにも見える宮地さんは、小振りなショルダーバッグを床にぽいと投げると「わりぃ」一言落とし、胡坐をかいた。
 酷暑の中、日焼けをした様子が無い所を見ると、どこか旅行に出かけていたようにも見えないし、実家のご両親は昨年、飛行機事故で亡くなっているから、帰る実家もないだろう。
「心配してたんすから。宮地さんが育ててた向日葵、ベランダで枯れてますよ?」

 宮地さんが俺の前から忽然と姿を消してから1か月間、俺は毎日宮地さんの住むアパートの玄関の前で、夕方から1時間ほど彼の帰りを待っていた。ベランダ側から見える向日葵は、日に日に元気をなくし、主を無くした事を知って悲しんでいるかのように項垂れ、その生命は風前の灯と言った状態。合鍵さえ持っていれば、俺が水遣りをしたのだが。生憎、そこまで深い関係には、踏み切れていない。

「あーあ、ホントだ。俺よりのっぽに育てるつもりだったのにな」
「それは無理っすよ。どんだけ貧困な土壌で育ててると思ってるんすか」
 小学生の観察日記に使うような鉢植えから伸びる、枯れた枝葉に触れる事も無く宮地さんは、部屋へと戻った。開け放った掃出し窓から、熱風とも言える風が部屋に入り込む。
「それで? 俺に心配掛けて、どこほっつき歩いてたんですか」
「ん、別に」
「もしかして、浮気?」
「じゃねーし」
 黄金色の髪をくしゃと掴むと、イタズラ気な笑みを零した。
「えー、だったらどこ行ってたんすか、教えて下さいよ宮地さん」
 笑みを崩さぬまま、彼はこう、言い放つ。
「蝉になった」
 期せずして真顔になった俺は「は?」不随意に問い返した。
「だから、蝉になったの、俺は」
「あの、お腹の部分がハイテクな感じになってる、あの蝉っすよね?」
 幼い頃から思っていた。蝉の腹部は、電子回路みたいだって。
「そ。俺、蝉になったから。あと一日で人生を終える、鳴き疲れた蝉」
 呼応したように、ベランダの方から一際大きな鳴き声で、油蝉が喚き始めた。自分の遺伝子を残すための7日間。生を燃やし尽くし、死んでいく。でもなぜ、宮地さんが蝉なのか。
「謎かけとか?」
「ちげぇし」

 食欲が無いと言う宮地さんを尻目に、コンビニで買いこんできた冷やし狸を食った。揚げ玉には目が無いくせに、あーんとか、くれとか、一言も言わない宮地さんに、何となく違和感を感じる。
「揚げ玉、残しときます?」
「だから、いらねぇって」
 ソファベッドを平らにすると、そこに身を投げ、いつもの様に枕元の白熱灯を灯す。もう眠いのかと思い早々に食事を切り上げると、待ってましたとばかりに部屋の蛍光灯を消した宮地さんは「風呂、いいや」そう言って、再びベッドに身を投げた。

 シャワーを浴び、タオルで髪を擦りながら浴室を出ると、部屋着に着替えた宮地さんは、こちらに背を向けて丸くなっていた。白熱灯の灯りと同じ髪色が、しかし白熱灯の質感とはまるで違う、艶を放っていて、引き寄せられるように近づくと、髪にそっと、触れた。
 ふわ、と絹糸みたいな髪は思いがけぬ弾力を有していて、指を差し込めば、熱を持つ頭皮に触れる。そのまま髪を梳く様に滑らせれば、彼の背中は少し、震えた。

 彼を抱くのは、これで何度目になるのか。数えていた筈が、いつしかあやふやになって、逢えば抱くのが普通になっていた。
「はぁ、んっ、宮地さん、もっと力、抜いてっ、」
 押し殺した声の隙間から漏れ聞こえる少し高い声は、確かに宮地さんの物なのだけれど、どこか彼の実態が抜け出てしまっているような、空虚な存在を抱いているようにも思える、不思議な感覚に陥る。
「宮地さん、なんっかいつもと、違くないっすか?」
 浅い呼吸の合間を縫って、「蝉だから」そう零す。
「まーたそれ。俺は蝉とセックスしてんでっすっかっ!」
 少し圧を込めて挿入すると、逸らせた宮地さんの背を覆う汗が、白熱灯に反射する。そこに、舌を這わせると一層逸らせた背に、薄らと、確かな筋肉が浮かび上がる。
「宮地さん、キレイ」
 後から飴色の髪を掴むとこちらへ引き寄せ、少し乱雑に突く。二人の身体がぶつかり合う度に聞こえる汗が弾ける音と、漏れ出す嬌声。
 そのうち、その声が抑えられない位に大きくなると、背後から口を塞ぐ。くぐもった喘ぎ声は手の平を震わせ、その響きが、俺の身体を震わせる。蝉の腹が電気回路なら、そこから放出される快楽の電流が俺の腰に流入していると思える程の心地良さに、思わず目を瞑る。
 腰をぶつける速度を早めれば、少し苦しそうに、俺の手の平の中に喘ぎ声を吐出する宮地さんは、まるで泣いているみたいに嗚咽して、それでも最後の声を上げると、ソファに敷いたタオルケットの上に、吐精した。
 いつまで経っても、底から顔をあげようとしない宮地さんは、小さく声を漏らしていた。
「宮地、さん?」
 俯き、震える肩に手を掛ける。どう見たって泣いている彼は、俺の手を振り解く。
「宮地さん、どーしたんすか。もしかして、痛かった?」
 首を横に振った彼の顔から、大粒の水分が重力に従って落下する。ほのかに煌めいて、しかしすぐシーツに濃い染みを作る。少し経過すれば跡だって消える。涙は案外刹那的だ。
 にじり寄り、抱き寄せる。傾れるように俺の胸に飛び込んできた宮地さんの絹糸を、すっと撫でてやると、嗚咽は少しずつ落ち着いて、平静を取り戻しつつあった。
「宮地さん、どしたんですか」
「蝉って、死ぬ前が一番デカい声で鳴くらしい。俺も蝉だから、泣けてきた」
 涙が伝った跡が残る頬を、親指で拭うと、柔らかな頬にくちづけを一つ。
「縁起でもない」
「お前とこうして生を感じ合うのも、これで最期だと思うと......つら、い」
 白くなるほど下唇を噛みしめる宮地さんの素振りからは、冗談とか、そう言う類の空気は全く発せられていなくて、本当にこの人は、蝉になってしまったのかも知れない、そんな現実離れをした思考回路が、突如として組み上がった。

 その夜、開け放った窓から入り込む涼風は少しひんやりして、抱き合って眠るには都合が良かった。二人身を寄せ、脚を絡め、互いを確かめるように幾度もキスをして、眠った。
 蝉になった宮地さんは、明日もまたきっと、生を確かめるようにして大きな声で鳴くんだろう。そう思えば、明日が来る事に対する不安を多少は掻き消す事が出来ると思ったのだが。
「これで最期」そう言った宮地さんの言葉は耳について離れず、すぐ目の前に存在する宮地さんが、明日になっていきなり消えるなんてありえないのに、酷く現実味を帯びる俺の頭の中の想像は、彼の消失を易々と許した。

     *

 なかなか寝付けなかった分、随分と長い事眠ってしまった。目に飛び込んできたバイカラーの時計は、10時を指している。ふいと隣を振り向けば、目を見張る。そこにはもぬけの殻になったタオルケットがしな垂れて、枕にははっきりと、彼の頭部の形が残っている。まだ、彼の温もりも、彼の匂いも、はっきりと残っていた。
「宮地さん!」
 半身を起こし、すぐさまベッドから飛び降りると、洗面所やトイレを見て回る。玄関に、靴はある。いつも持ち歩くショルダーバッグは、部屋に置かれたままだった。
 膝から崩れ落ちる。彼は本当に、目の前から消えた。もしかすると、消息を絶っていた1ヶ月の間に、彼は死んでいたのかも知れない。昨日確かに感じた彼の体温も、熱い吐息も、全ては俺の幻覚で、実際は実体のない彼を、抱いていたのかも知れない。
 最後の生を燃やし尽くした彼は、俺の前から姿を消した。きっと、いなくなったご両親の下へと旅立ったのかも知れない。
 不意に視界に飛び込んできたのは、大輪の向日葵。昨日までしな垂れていた向日葵が、最期の力を振り絞って、昼の日差しに向けて首を回している。ベランダへ出て、土の乾燥を確認する。そこには一匹の油蝉が、ひっくり返って死んでいた。


高尾へ

大好きだった。今も好きだ。
ずっと渡せなかった合鍵、ここに置いておくから。
自由に使えよ。
幸せになれよ。

宮地


 何が幸せになれよ、だ。宮地さんのいないこの世界で、どうやって幸せになるんだよ。
 ずっと欲しかった合鍵だって、宮地さんが帰らない部屋なんて、ただの箱だろ?

 育っていく向日葵の葉を愛しむように撫でていた宮地さんを思い出す。夏の日差しを浴びて金色に輝いた美しい髪は、向日葵の花弁の色に似て、花が咲かなくたって宮地さんが向日葵だった。
 そう、彼は蝉なんかじゃない。向日葵だ。太陽に向かって両手を広げ、大きく咲く向日葵なんだ。こうして強い命を紡ぐ、向日葵なんだ。

 だから早く、ここへ帰って来て、宮地さん。

 宮地さんの温もりがまだ残るタオルケットを抱きしめ、抑えきれない嗚咽に身体全体を震わせる。止めどなく流れる涙が出尽くしてもなお、悲しみに歪んだ顔は戻らないまま、立ち上がる。
 向日葵の根元の土を少し堀り、合鍵を埋めた。隣に、蝉の死骸も埋めた。水を汲んだ如雨露を傾けると、日差しを浴びた透明な水が、水晶みたいに煌めいている。美しい向日葵となった宮地さんには、お似合いだ。宝石みたいな瞳をした宮地さんに、宝石みたいな水の欠片が染み込んでいく。
 これから毎日、欠かさず水をやりに来よう。向日葵が枯れないうちは、宮地さんがきっとここへ戻ってくると信じて。
 敵わない夢と分かっている。だって宮地さんはきっと、この世のものではなくなっている。それでも、この腕に抱く温もりや体温、彼の匂いは本物で、世界で一番愛おしく、だったら実態なんて伴っていなくたって俺は彼を抱く。

 あなたは、向日葵だ。7日で生を終える蝉ではない。だから傍で、いつまでも傍で、その大輪を咲かせていて欲しい。

 玄関を出ると、南中に向けた日差しが痛い程降り注いていた。
 今日から8月。盆になったら、宮地さんから聞いていたご両親の墓に、足を向けてみよう、そんな事を思いながら、並木が僅かに作る木陰を選んで、飛ぶように歩いた。
 一匹の蝉が、力強く鳴いていた。