冬の始まりを告げる吐息
 ふらりと立ち寄った駅前の百貨店は、どれもこれも零が一つ多い品物ばかりが陳列されていた。触れたら汚してしまう気かしてしまう。
 カシミアのマフラー。きっと二人で揃えたら、俺は家の中でだって手放さない自信があったけれど、到底、貧乏大学生の手が届く代物ではなかった。
 百貨店の隅に、小さな雑貨屋があった。これまで存在すら知らなかったその雑貨屋には、カジュアルな鞄やアクセサリーが並んでいる。少し場違いな雰囲気が逆に俺たちを魅了して、示しを合わせなくても二人、勝手に足を向けていた。
「このマフラーだったら、買える、よな」
「マフラー買うんすか?」
 高尾が手に取った空色のマフラーは、こんな色の毛糸が世の中に存在していたのかと思う程、吸い込まれそうな青。対して俺が手にしたマフラーは、果汁百パーセントを表すみたいな、底抜けに明るい橙。
「え、宮地さん、オレンジ欲しいんすか?」
「ちげぇよ、俺がこの色のマフラーして似合うと思うか?」
 そう言って、両手にマフラーを渡すと、高尾の首に宛がってみる。カーキのショートコートに映える明るい橙は、快活な高尾をより一層引き立てて、お似合いで、思わず口角が上がる。
「似合うな、うん。俺が買ってやる」
「え、ちょっと待ってよ宮地さん。俺もこれ、買う!」
 手にしていた空色を、ぐいと首元に突き付けられる。ふわっと、新しい繊維の匂いがする。
「この色、似合うと思ったから。俺が宮地さんにプレゼントします」
「マジかよ、俺その色いいなって思ったんだよ」
 俺の言葉に、はにかむように笑んだ高尾は、「へへ」なんて零して、俺の顔もろくに見ずしてレジへと歩いて行った。

 百貨店から出ると、顔を掠める空気はひんやりして、透き通っていた。寒々しい空色のマフラーを紙袋から出した高尾は、丸めた紙袋を脇に挟み込んで、俺の首に緩くマフラーを巻きつける。二回巻いたって余りある、長いマフラー。
「ちょっと待て」
 手にしていた紙袋から、橙のマフラーを取り出すと、俺の首から垂れ下がる空色の端に結び付ける。随分と長く伸びたマフラーの端を、高尾の首にふんわり、巻いてやると、少しくすぐったそうにくぐもった笑いを零した。もう片方の端は、俺の首へ。きゅっと結べば、二人の距離が少し、縮まる。
「暖かいな」
「超恥ずかしいけど、宮地さん」
 高尾の頬を染める朱色なんて気にしないで、俺は自宅の方へと歩みを進めた。
 二人で並んで歩いて帰るのが好きだ。歩いている時は、家にいる時よりもずっと、長い時間傍にいる事が出来る。いつも俺の右側に、高尾の温度を感じていられる。高尾の心臓は、俺の直ぐ傍。だから、駅から随分と歩かなければ辿り着かない今のアパートも、引き払うつもりはない。

 長雨は終わりを告げ、北風は少しずつ湿度を手放していく。空気が少し淋しい匂いを発する、昨年の秋の終わり。

     *

 一年経過したところで、俺の経済状況にはそう変化はない。貧乏学生にエアコンなんて夢のまた夢で、少し冷えてきた秋の終わりには、室内であっても上着とマフラーを着る事で寒さを凌いでいる。
「秋雨前線ってさ、もう、いなくなったの?」
 つい最近までは、氷をうず高く積んだグラスにアイスコーヒーを淹れていたのに、季節は移ろって、琥珀色の飲み物からは白い湯気が立ち上っている。
「お天気おねーさんは、もう終わりって言ってましたけど。どうっすかね」
「そしたらじきに、冬が来るなぁ」
 マグカップを手に、掃出し窓へと近づく。目の前に見える駐車場の木々の葉は黄色く老いて、強い風が吹く度に大袈裟なぐらいに舞っている。
 春の終わり、夏の終わり。冬の終わり。どれも、次の季節を迎える昂揚感を伴う変遷なのに、秋の終わりだけはどうしても、長く暗いトンネルの入り口に立たされたみたいな閉塞感があり、どこか憂鬱だ。
「宮地さん」
 後ろから歩み寄った高尾は俺の背後に寄り添い、彼の形の良い鼻が、俺の首筋に触れた。随分と冷たいそこを感じた俺は、どうにかして彼を温めてやりたくなって、振り向きざま、彼の鼻頭に一つ、口づけを落とした。
「寒い?」
「寒いっす」
「こっち来い」
「ん」
 抱きしめた高尾はふんわりと暖かくて、眩暈がする程素敵な香りがして、つややかな黒髪にも口づけを。少し恥ずかしそうに笑う彼を更に強く抱きしめると、おずおずと差し出された彼の手は俺の腰の辺りに周り、遠慮気味に引き寄せる。
「好きだよ」
「俺もッス」
 俺と高尾の体温があれば、どんな寒さも乗り越えられる。二人なら、どんな冬だって怖くない。そう思って疑わなかった。
 二人なら、そう、二人なら怖くなかったんだ。

     *

「C棟一階の階段教室の脇に、小部屋があるから。そこからこのファイル、探してきてくれるかな」
 教授のバカみたいに丁寧な文字を見つめ、無言で首肯する。めんどくさい、なんていう俗語が通用する相手ではない。メモを手に、ラボを出た。
 殆ど人が訪れる事のないC棟の裏には、確か小さな裏庭があって、たった一つ、少し錆びたベンチがあった筈。使われていない校舎だから、裏庭まで足を運ぶ人も少ない。高尾と初めてキスをしたのは、去年の秋、裏庭。その裏庭には銀杏の樹が植わっていた事を記憶している。
「うんわ、埃すげぇな」
 鍵を開け、白いカーテンが掛かった小部屋に一歩踏み出す。外からの日差しに室内の細かな埃が反射して、場違いなほどに神秘的だ。吸い込まれるように部屋へと入り、埃の洗礼を受けつつ進む。いつから閉じたままなのか分からないクリーム色のカーテンをざっと開いた。秋晴れの日差しに一瞬目が眩んで、目蓋の裏が真っ白になる。少し慣れた目を瞬かせると、裏庭のベンチに腰掛ける、見覚えのある、二人。
 二人の足元に、銀杏の葉が敷き詰められている。そこだけ切り取れば絵画みたいに美しい光景。その二人が、「その」二人でなければ、の話だが。
「......」
 日差しが照りつけて宝石みたいに光る翡翠色の髪。隣に腰掛けるのは、良く見慣れた黒髪の、今朝まで俺の隣に居た、あいつ。緑間が買ったんだろう、二人の手にはお汁粉が握られている。そして二人は互いに、一つのマフラーを首に巻いていた。そう、それは一年前に俺が、高尾の事だけを考えて買ったマフラー。ひと冬の彼の首元を彩っていたマフラー。
「うそ......だろ--」
 無意識のうち、ポケットから取り出したスマートフォンをタップして、耳に当てる。呼び出しの電子音に同期して、ベンチの高尾はもぞと動き、何かを手にした。
『宮地さん? どーしたんすか?』
「高尾? 今どこ」
『大学、ですけど』
「誰といんの」
『え、一人、ですけど』
 手元にあったメモ用紙を、くしゃと握りつぶす。形の良い教授の文字が潰れ、見えなくなった。
「そっか。一人、な。これから駅前のカフェ、来られるか?」
『これから......』
 言って、ちらと緑間の顔を確認する素振りを見せた。
『大丈夫、ですけど、どうしたんですか』
「俺に隠したいのか、そんなにやましい事なのか」
 耳元から離したスマホの赤をタップする。ポケットに仕舞い、僅かに震える手でカーテンの端を掴む。勢いよく閉めようとした刹那、向こうにいる高尾と、視線がかち合った、気がした。

     *

 一杯目のカフェモカを飲み干す頃、店の自動ドアが開いた。彼は橙のマフラーに顔をうずめたまま俺をちらと見遣り、ひらりと手を挙げる。なんとなく挙げそびれた俺の手は、中途半端な高さを維持したまま、頬を掻く。
「待ちました?」
「見ての通り」
 ほぼ空になりかけたマグカップを傾けてみせれば、苦笑する彼。どことなく、表情に余裕が無いのは、気のせいだろうか。
「で、どーしたんです? ラボの方はいいんですか? 遅くなるとか言ってたじゃないですか」
「研究室のやつに任せたから」
 最後の一口を飲み干す。残っていたカカオの味は随分と濃厚でほろ苦く、カップの底に、焦げ茶がこびりついている。水でも流し込めば簡単に溶けてしまいそうなのに、今は逆さにしたって動かない焦げ茶に、自らの思考の固さを見ているようで、目を背けた。
「何でさぁ」
「はい?」
「何で緑間と二人であそこにいたの」
「あそこって?」
 随分と白々しい高尾の声は少し上ずって、ちらと見た表情はやはり少し固かった。
「C棟の裏庭。俺に見られてたの、分かっただろ。とぼけんなよ」
 彼を糾弾し、困らせるつもりはなかった。ただ、本当の事が知りたいだけで。それなのにこの口は、次から次へと彼を責め立てようとする。
 苦々しい笑いを零しながら、前髪をいじっている高尾に、畳み掛けた。
「何でアイツにマフラー、貸してんだよ」
 透明のカップに詰まったフラペチーノをストローでつんと刺すと、首を傾げた彼は、言う。
「見たでしょ? 真ちゃんてばクソ寒いのにカーディガンしか着てなくて、あ、ほら俺、実習の班が一緒だから、休まれたら困るんスよね。だから、風邪ひかないようにー、とか?」
 冷たさから逃れるみたいに透明カップを指先で支えると、それをひと吸い。クラッシュした細かい氷の表面が、すっと下がっていく。俺の頭の中も、ぐっと冷やされるような感覚。
「だったら、上着でも何でも、貸せばいいだろ。何でよりにもよって、あのマフラーなんだよ。二人で一緒に巻いてんだよ。おかしいだろ?」
「だって、俺も寒かったし......」
 額に手を遣る。聞きたくない事も、言いたくない事も、次から次へと溢れ出てしまう。自分が傷つく事を知っているのに、残酷な解を求めてしまう。知りたくない、そう思えば思うほど、知っておかなければならない辛い現実を、彼に求める矛盾した自分がいる。
「本当は、友達以上に大事なんだろ、緑間の事」
「そんなーー宮地さんのほうが」
「俺とお揃いで買った大切なマフラーだって、気にせず一緒に......一緒に巻いちまうぐらい、アイツの事、大事なんだろ」
 ぎぃ、と大仰な音と共に立ち上がった高尾は、膝に乗せていた鞄を乱雑に肩に引っ掛けると、足早にそこから立ち去った。小さくなる、後ろ姿。自動ドアを潜った彼の首から垂れ下がるマフラーは、晩秋の風に吹かれて舞い上がった。
 彼の首に巻かれた橙が、嬉しい存在だった筈なのに。
 暖房からの熱気を浴びたフラペチーノは、だらしなく結露を滴らせていた。

     *

 大学の直ぐ側にある学生寮。幾度も足を運んだモスグリーンのドアをノックすれば、奥から近づく足音。ノブが回る冷たい金属音。ドアの隙間から運ばれてきた、珈琲の香り。
「宮地さんーー」
「入っていいか」
 高尾の返答も聞かずに無理矢理のように足を踏み込んだ小さな三和土には、高尾のものよりも一回り大きなスニーカーが、行儀よく揃えられていた。目に入ったその光景は直ちに脳を刺激して、気付けば廊下に高尾を押し倒していた。
「ってぇ......、何するんスか、超いてぇ」
 痛さで目を瞬かせる高尾をじっと見つめると、彼は冷ややかな灰色の瞳をじぃとこちらへ向けて、難しい顔をする。
 その瞳に吸い込まれるように俺は、彼の桜色の唇へ吸い付けば、身動ぎする高尾を押さえつけて、角度を変えて何度も、何度も、高尾の味を確かめる。これは間違いなく、俺が愛している高尾だって事を、再認識するように。
「もう、俺の事なんて嫌いになったのか」
 ぎし、部屋の向こうからの音に、ふと顔を上げれば、ただ呆然と立ち尽くす、翡翠色の髪。それでも俺は高尾の真意を確かめたくて、押さえつけた手を離さなかった。
「アイツのほうが、いいのかよ」
「宮地さんの事、好きですよ。好きだから、隣にいるのが辛いんですよ。いつ終わっちゃうんだろうって、そんな事ばっかり考えて」
「終わらせねぇよ。終わらせるつもりなんてねぇし」
 じっと見つめる彼の瞳は微かに揺れて、下瞼に潤みが耐えている。はっとして、それを親指で受け止めるのだけれど、すっと流れた涙はこめかみを伝い、止まらなくなった。
「たか、お?」
「いつ、あなたの横に、純白のドレスを着たお姫様が舞い降りて、タキシードしか着られないお前じゃだめだって言われても、おかしくない」
「だったら! だったら緑間だって同じだろ! あいつだって男だろ!」
「真ちゃんは!」
 胸の奥に響く、強い声。眉間に皺を寄せ、いびつに歪んだ泣き顔、鋭い瞳。どれを取ったって、始まりなんてそこにはなくて、終わりを告げる足音が、遠くから空気を震わせている。
 伏せた瞼から流れ出す涙には、どんな意味があるのか、俺にはさっぱり分からなかった。悲しい思いをさせた事はない。しかし、俺が彼を疑うことで悲しい思いをさせていたなんて、この時は思いつきもしなかったんだ。
「真ちゃんは、俺がどんなに深入りしたって、俺にはなびかないって知ってるから。俺、全部知ってる、から......」
「何だよそれーー」
 きっ、と睨みつけるような冷ややかなアイスグレーは俺を見据えて、幾分糾弾されているような、そんな心持に、動揺する。続く彼の叫びに、継ぐ言の葉を失った。
「真ちゃんは、宮地さんの事が好きなんスよ! 俺とあんたの関係を見て、ずっとずっと、我慢して笑顔で耐えてたんスよ!」
 周辺視野に、緑間がしゃがみ込む。それはそれは大きな溜息が飛んできて、空気が重くなる。俺は高尾の瞳も、緑間の瞳も、正視する事が出来なかった。そこに映っていいのはもう、俺ではないのかもしれない。
「宮地さん、別れてください」
「な、んで」
「俺、真ちゃんがあんな風に寂しそうに笑うの、もう、見たくないから」
 しんと静まり返った部屋の中、落葉樹から落ちる葉の数々が互いを掠める乾いた音が、開け放ったドアから鼓膜を揺らした。

     *

 冬の始まりを告げる白い吐息が、無意識に吐き出した溜息に乗って流れ出す。
 新しく買ったマフラーはまだ、どこか余所余所しい匂いに溢れていて、俄に湧く孤独感に目を伏せる。首を埋めれば、全ての終わりを告げるみたいな新しい世界が、すぐそこで手を広げていた。

 いずれ壊れることがわかっているのなら、
 何もなくても壊れることのない方を選択した。

 俺の隣に、あいつはいない。空虚になった右側を、聞こえない鼓動を、ほんの少しだけ恨んだ。