2月の深海
 集う人間は同種であっても、一度身を交わせば二度と会うことはない。そんな刹那的な出会いの場でボクが出会ったその人は、他のどの人とも違った。名も知らない、瞳を覗いた事もない、知っているのは体温と、漏れだす吐息だけだった。

     *

 ある人の影を追って、ボクがとある社交場へと足を運んだのは、雪がちらつく2月の夜だった。バーの中に点在する小さなトールテーブルの一つに寄りかかり、辺りを見渡せば、吐息のように囁き言葉を交わす人達。時が経てばそのうちの幾人かは腰を抱き合い、夜の闇へと消えていくだろう。

 ボクは2週間前の夜、とある男に声を掛けた。
 ニットキャップに覆われた髪色は窺い知れないし、季節外れの大きなレンズのサングラスに瞳の色も覗けない。それでも、ボクよりも随分と上背があり、随分細い線は、あの人によく似ていた。それだけの事でも、ボクが彼に近づくには十分過ぎる理由となる。
「待ち合わせですか」
 彼は細い指を少し曲げて顔の前で左右に振る。カウンターに向かって手を上げたボクは、「ビール」のハンドサインを投げた。
「ボクも一人なんです。良かったら少し、お話しませんか?」
 しかし彼は口を開く素振りも見せず、明後日の方向へ顔を向ける。それでも確かに一つ、頷いてみせた。運ばれてきたビールを手で勧めてみれば、ゆっくりとそれを口元へと運び、喉を鳴らした。酷く目立つ喉仏に視線を釘付ける。
 こういった場で、相手に根堀り葉堀りする事はご法度であって、ボクだって彼と深い話をする積りはさらさらない。一夜の出会いに身を任せ、夜を明かす事、それがこの社交場のルールだ。
「これを飲んだら、出ませんか?」
 喉を鳴らし、ジョッキを一気に空にした態、急いでいるようにも思える。ボクも懸命に嚥下しビールを飲み干すと、チェスの駒を模したペーパーウェイトに札を挟み「行きましょう」促した。
 呼び名を聞こうとしない。俺の名を呼ぶ積りはないのだろう。ボクも彼の名を知ろうとは思わなかった。知りたいのは、彼の体温。彼の吐息。それだけでボクは、満足だった。

     *

 1ヶ月ほど前、ボクは恋人に別れを切り出された。この先続くことのない道の果てに、広がる展望は皆無で、「俺とは離れた方がいい」そんな消極的な別離の理由だった。勿論、納得が行かず、ボクは形振り構わず彼に縋ったが、案外彼の決意は堅く、最後のキスが切なげな幕引きとなった。
「好きじゃなくなったなら、こんな事しないでください!」
「誰が好きじゃないなんて言ったんだよ」
 唇を離せば肩に回した手も自然と離れ、二人に距離ができる。不可侵の領域が生まれたように、二人はその距離を縮めることが出来なかった。
「お前の未来の為に、別れるんだ」
 ボクには理解できなかった。彼がいない未来など想像したことがない、想像したくもない。然れどもそれを言い捨てた彼は、絶対領域を残したまま、ボクの部屋を去って行った。残された空虚な空間にボクの存在理由を探し、彼が残した少し大きな白いワイシャツに縋って、泣いた。

     *

 ボクに跨って座る彼の後ろに手を回し、そこを解すように円を描く。空いた片手で反り返ったモノを扱けば、身を震わせてボクを抱きしめる。少しずつ、少しずつ指を先に進めるとぎゅっと締まるそこを、更に広げようと弧を描く。
 彼から漏れだす吐息はボクの聴覚を刺激し、背筋に電気が走る。彼は決して声を漏らそうとしない。グッとボクを引き寄せ、それでも足りなければ、ボクの肩に歯を食い込ませ、身体を震わせる。
 指が二本、三本と増し、中でパラパラと指をバラけさせれば、痛いほどにボクの肩を抱きしめて、歯を立てる。不思議と痛覚は快感へと変換され、もっと痛みを、と彼の前立腺を探し当て、擦り付ける。
「はンッ!!」
 遂に漏れだす声と同時に、それまで感じなかった鋭い刺激が肩に生まれる。すと視線を遣れば、紅色の液体が滲み出ていた。ボクの肩を撫でつ、その部分に唇を這わせた彼は、口元だけで微笑みを作り、顔を上げる。サングラスにニットキャップ、チグハグな様相に、唇だけが紅を引いたように鮮やかに妖艶で、思わずボクは唇を重ねた。鉄分を希釈するように、彼の唾液を吸い取り、飲み込む。何度もそうして、彼の唇から紅を奪った。

 肩口からの刺激と体の中心を射抜く悦楽に、ボクは声を我慢することができなくなっていた。相変わらず彼は、ボクの肩に噛み付き、声を殺している。ただただ漏れる吐息はあまりに色っぽく、ボクを興奮させるには十分だった。
 ボクに跨る彼は、自分の快楽に従順に腰を振り、ボクはそこに向けて下から突いた。
「んふッ、はぁ......凄い、すごくいい、です......んァぁぁ......」
 彼の喉の奥、極小さくも高い嬌声を耳にする。増していく息遣い、噛みつく力、震わせる身、最期が近いと悟る。
「もう、イッて......うぁ、んッ、イッて! ほら、んふぁっぁぁ!!」
 肩から肉塊が千切れそうな強い刺激が伝わり、瞬間、身体を翻さん勢いで震えた彼は、刹那ぐたりと力なくしなだれ、ボクはそんな彼の中に向けて数度、吐精した。

 彼は浴室にあったタオルをボクの肩に巻いてくれた。巻き終わると真っ黒なサングラスの向こうから、少し笑んでくれたように思う。ボクはそれが心底嬉しくて、彼を抱きかかえるとベッドへと沈み込んだ。
 足を絡め、抱きしめ合う。彼の喉から、長い、長い、吐息が漏れ、ボクはそれをもっともっと長くしようと抱きしめる力を強くする。
 彼の吐息を感じていたい。彼の体温を感じていたい。
 暮れ泥む時間に閉じ込められた二人の空気は、ボクの不確かな確信に揺れていた。

     *

「こんばんは」
 この日も彼は、同じトールテーブルに肘をつき、憂鬱な顔でガラス窓の外へと視線をやっていた。女性物のようなサングラスに白い肌。モデルのような身体つきに、言い寄る男は多いようで、ボクは少し離れたところから彼の所作を見ていたのだが、手の平一つで追い払っていた。
「ボクは、追い払わないんですね」
 サングラスをこちらへと向け、僅かに首を傾げる事を返事とする。
「ビールは、飲みますか?」
 それとは分からない程度に首を横に振り、店の外を指差す。頷いたボクは、彼の後ろについて、先日のホテルへと歩いた。

 浴室から漂うボディソープの香りと水の音。少し照明を落とした部屋の大きなベッドにボクは寝そべり、先日を思い起こす。彼は下半身だけ服を脱ぎ、身体全体は窺い知ることが出来なかった。今日もきっと、服を着たまま浴室から出てくるに違いない。
 予想は的中し、シャツの前だけを開けさせた姿で湯気の中から現れる。
「また服、着てるんですね」
 小首を傾げ、ボクの隣へと滑りこむと、履いていたデニムだけを器用に脱ぎ捨てた。

「もう、入れますよ」
 力をなくしつつある彼を四つん這いにさせ、ローションごと後ろの孔に宛がうと、よく慣れたそこは然程抵抗もないままボクを飲み込んでいく。そのままゆっくりと、抜き挿しを繰り返せば、彼は枕に突っ伏しで、声を殺している。
「あぁぁぁあぁ、超気持ちいです......すいません、今日ボク早いかも」
 挿入したまま彼の熱い身体に手を這わせ、触れた二つの突起をつまみ上げる。人差し指で振動させれば呼応したように痙攣をする。片手をシャツに掛けると、そのままシャツを彼の首もとへとたくし上げ、引き締まった背中に視線を落とす。
 薄暗い部屋でもはっきりと分かる、正中線に落ちた二つのホクロ。明るい所で見ると、少し茶色がかっていて、下の一つは僅かに赤い。抜き挿しを繰り返しながらそこへ舌を這わせれば、彼の身体は反り返り、吐息は上方向へと飛んで行く。

 ボクは知っている。この体温も、この吐息も、このホクロの存在も知っている。ふわりと綿菓子のようだった疑念が今、確信へと変わった。

 最奥までしっかりと突けば彼は押し殺した吐息の隙間から、かん高い嬌声の欠片を零し、ボクはそれが聴きたくてもっともっと突いた。しかし彼の限界はそこまできていたらしい。
 指が真っ白になる程に枕の端をぎゅっと握ると、大仰に身体を痙攣させ、その場に倒れこんだ。
 背後からボクは彼を抱きしめ、首筋を強く吸い跡を残す。
「ボクは離れたくなかったんです、宮地さん」
 刹那、動きを止めた宮地さんは、諦観したように脱力し、ニットキャップを投げ捨てる。浴室の灯りを反射する金色の髪が、そこにあった。
「俺だって離れたくなかったから、ここにいるんだろ」
 宮地さんを仰向けると、場違いな黒が彼の瞳を遮っている。
「宮地さん、サングラスがあるとキス、しづらいです」
 薄く笑んだ宮地さんはサングラスのブリッジに指をかけ、すっと遠ざける。
 間合いを詰め、ボクの唇で彼の唇を掠めながら言った。
「戻ってきてくれてありがとう」
 僅かに開いた口で彼に吸い付けば、舌は絡まり踊り出し、いつまでも水音を響かせる。二人深海の奥の奥へと沈み込んで行く。

 体温と吐息、それだけを覚えていれば、彼に辿り着く事が出来る。海の底に放たれてもボクは、体温と吐息を頼りに、濡れそぼった彼を探し出すことができるだろう。