COLORS
「何だ、高尾か。どうした?」
 ドアを開ければそこに立つ黒髪は、廊下に照る粗末な蛍光灯の光を受け、「入ってもいいっすか?」と俯き加減に頬を掻く。肩には少し大きなボストンバッグが下がり、重そうに肩を持ち上げた。
「あぁ、いいけど」
 片手でドアを支え、高尾を中へと促す。「お邪魔します」そう言って靴を脱いだ高尾は、丁寧にそれを揃えると、部屋の中へと歩を進めた。
 アパートを訪ねてくる事は数度あるが、こうして部屋に上げる事は初めてだ。必要最低限の家具家電に脱ぎ散らかした服。溺れそうな部屋の真ん中に、高尾は腰を下ろした。麦茶を注いだ俺は、それをテーブルへ乱雑に置く。波のように揺れた水面が、グラスを飛び越えた。
「宮地さん、彼女います?」
「はァっ?」
 片眉をぐいと上げると、対して高尾は困ったように眉尻を下げる。
「いねぇけど、何?」
 グラスを手にして高尾は一口含むと、何かを決したように、一つ頷いてから、徐ろに口を開いた。
「この家に俺を置いて下さい。迷惑はかけませんから!」
 あまりの急展開に襲われ返答につまり、呼吸が止まる。高尾の真剣な顔を見るに、冗談ではなさそうだ。

 聞けば、家庭の事情で仕送りが激減したんだそうだ。専門学校の寮に入るよう、親からは説得されたが、何かと制約の多い寮生活は避けたい、とアルバイトをして生活をする事で了承を得たらしい。
 とは言え、高尾が学ぶ専門学校は医療系の忙しい生活ゆえ、アルバイトをする時間も取れず、当面は収入がない。僅かな仕送りでは生活がままならず、近場にある俺の家を頼ってきた、というわけだ。
 俺はといえば、突然訪ねてくるような彼女がいる訳ではないし、学業優先でアルバイトはしていないが生活に困っている訳でもない。実習に就活にと忙しく、金を浪費する時間もない。可愛い後輩を邪険にする理由はない訳で。
「宮地さん、一生のお願い!」
「お前、輪廻転生早そうだな」
 俺の言葉にあざとく笑った高尾が小首を傾げれば、胸のどこかがチリっと痛む。時折見せる女のような仕草に、何度も呼吸を乱された経験がある。一つ屋根の下暮らすとなれば、日々そんな事が起きないとも限らない。
 いや、ただの生活に困っている後輩だ。そう自身で始末し、「構わねぇよ」と投げる。
「ただ、見ての通りワンルームだ。布団一つで雑魚寝だ。飯だって簡単なものしか作れねぇからな。それでも良ければ」
「嬉しいです! これだから宮地さん、大好き!」
 呆れる隙も与えず、俺の下半身に抱きついた高尾を足蹴にすると、俺は麦茶を片付けた。

 何かを期待していたのかもしれない。しかし期待通りに事が進めば困惑する結末が待ち受けている。どうして俺は、コイツを受け入れたのだろうか。

     *

 髪一本だって揺らさないほどに完全なる無風状態を脱しようと、自ら空気を撹乱し、歩く。実習が長引き、大学でコンビニ弁当を食べた俺は、汗だくの態で九時半ごろ帰宅した。既に家に着いていた高尾は、照明を落とし真っ暗な部屋の中。テレビの明かりでぼんやり浮かび上がる高尾の姿は、なかなかホラーだ。
「何やってんだ、お前」
 見れば液晶の中、大仰な効果音と共に輪郭のぼやけた女が飛び出した。
「ほら、見えた! 見えた! これ絶対本物っすよ、マジこえぇ」
「怖いなら見るなよ」
 吐き捨てると、鴨居のS字フックにリュックを下げ、高尾の隣に腰を下ろす。
「こういうの、好きなの?」
 画面から目を離さないで高尾は、申し訳程度にこくり、頷いた。瞳にテレビの青い光が行き来する。
「怖いけど、見ちゃうんですよ。ほら、またあそこ! いた!」
 ぐい、と二の腕を掴まれ、そのまま身を寄せてきた高尾に「離れろ!」と吐くが、高尾は強い力で巻き付き俺の二の腕を離そうとしない。
「おいおい高尾くん、こんなの全部CGだよ? 作り物だよ? 今じゃ女優だって作り物だよ? フォトショだよ?」
「でもこれは絶対本物ですって。あぁ、俺一人でトイレ行けねぇよ」
 これ見よがしに大げさな溜息を垂れ流し、暫く俺は、腕に高尾を巻きつけたまま、さして興味のない心霊番組を見るともなしに見ていた。

「宮地さん、そこにいますか?」
 5回めとなる存在確認が、カーテンの向こうから飛ばされる。ユニットバスの便座に腰掛けた俺は、排泄もしないのにそのままの姿勢で「はいはいいますよ」とウンザリした声を投げる。
 怖い、といったって限度がある。一人で風呂にも入る事もままならないのならば、初めから見るんじゃない。そうは思うものの、この世に存在しない創作物にあれ程までに恐怖する高尾の姿は、可愛らしく感じなくもない。先刻掴まれた二の腕に、何気なく指を這わせる。女でもない相手に対し、少しでも動揺した俺のほうが幽霊よりずっと恐ろしい。
「宮地さん、いま......」
「いるっつの、轢くぞ!」
 蛇口をひねる音に同期しシャワー音が止むと、カーテンの向こう、ぼそぼそとタオルが擦れる音が続く。
「宮地さん、そういう格好でウンコするんですね」
 顔を上げれば、筋肉質の裸体に、股間だけをタオルで押し隠した高尾が、満面の笑みを浮かべている。
「おい! 服着ろよ!」
「だって部屋着置いてきちゃったんですもん」
「これ着ろ、これ!」
 手にしていた俺の部屋着を手渡すと、嬉しそうに笑んだ高尾は「宮地さんの部屋着ぃ」と鼻歌交じり服を着替え始めた。
 調子が狂う。相手は男だ。何を動揺する事がある。
 そうは思うのだが、思考は正直にたじろいで、着替える高尾から目を背ける自分は本当に気持ちが悪い。
 少しオーバーサイズのTシャツは、首元に大きな開きを作っている。そこから見える筋張った骨が妙に艶かしく、直視することが出来なかった。
「俺、次、入るからお前外出てろ」
 しかし高尾はちゃっかりと便器に腰を下ろし、俺を見遣る。
「部屋に一人じゃ怖いですから、今日はここにいます」
 高尾の用便を覗き見しているような後ろめたさに思わず目を瞑り、ピシャとカーテンを閉じた。

(サンプルです)