VOICE
「緑間先生、お客様ですよー」
 食堂で遅い昼飯を終え、医局に戻る途中、ニヤケを全開にした高尾が長い廊下の向こうを指でさした。
「誰なのだよ」
「行ってみりゃ分かるって」
 一般病棟と小児科を仕切るガラス扉まで歩を進めれば、ドアの向こう、一際背の高い男が一人。
「宮地さん......」
 ひらり右手を挙げたのは、新聞記者となって九州へ移った、宮地さんの姿だった。重い扉を開くと、「入っても大丈夫か?」そう言いながらそろり、片足を踏み出す宮地さんは、相変わらず少し高い声で、相変わらず艶のある髪で、相変わらず優しい瞳で、俺の胸の奥を突いた。

     *

「手を動かしながらでもいいですか?」
 医局の隣にある資料室を親指でさせば、「忙しいのに悪いな」と髪を掻く。
「いや、雑用みたいなものなので。どうぞ」
 ドアを開き、中へと案内する。そう背の高くない書架が並ぶ小部屋の真ん中に、会議テーブルにくくりつけた七夕用の笹が揺れている。
「お、七夕飾りか。これは、子供が書いた短冊か」
「えぇ。数日前から書かせておいたものです。明日の七夕までに間に合わせないといけないので今のうちに」
 桃色の短冊の一つを手に取ると、パンチで開けられた穴にタコ糸を通す。
「お、じゃあ俺も手伝うよ」
 そう言って空色の短冊を手にし、書かれた願い事を読み上げる。
「早く学校に行けますように、うーん、そうかそうか。良平くんのお願いごとだな」
 見れば、長い指先を器用に動かし、タコ糸を結びつけている。一つ結びつける毎に満足そうに笑んで、きっとこの人は子供が好きなのだろう、そんな風に思う。
 笹を挟んで二人、作業に没頭する。宮地さんは逐一願い事を読みあげるから、少しペースが遅い。それでも、大して急ぎの仕事でもないから、俺も未だに読んでいないお願い事の数々を頭に積み込み、病室での話のネタにでもしようかと考える。
「手術が痛くありませんように、そら。ふーん、お前の手術、痛いのか?」
「痛くした覚えはないのだよ。その子にも結局、苦痛を与えてなどいない」
 過る、家族の顔。青白く染まっていく唇。
「お、もう手術終わってんのか」
「えぇ。終わりました」
 短冊をつんと突くと宮地さんは、当たり前のように、笑う。
「良かったな、願いが叶って。てか七夕は明日だけど」
「亡くなりました」
「へ?」
 昨日の昼過ぎ、食事をとった後容態が急変し、大して手を施す事も出来ないうちに、亡くなった。移植待ちの子供だった。
「他にもいます。短冊を書いたけれど亡くなった子がもう一人」
 笹の頂点に飾ってやろうと、脇に避けておいた黄色の短冊を、宮地さんの目の前に見せれば、彼は食い入る様にそれを見つめた。
「真ちゃん先生の、お嫁さん。朱莉。そうか、もう、叶わないのか」
 静かに頷くと、最後に飾ろうと再び脇に避ける。
「大変、だな。医者って」
 毎日のように、生と死の境を彷徨う人間と接する。自分の判断ミスで生命を奪ってしまうかもしれない緊張感は、いつになっても慣れる事がなく、不幸にも失ってしまった生命は、悔やんでも悔やみきれない。自分が担当した患者のうちで、亡くなった人は、年齢も、名前も、しっかりと記憶して忘れない。しかし。
「人の死を悼んでばかりもいられないのだよ。死にそうな子供を助ける事も大事ですが、今病気で苦しんでいる子供を、学校に行けるように、保育園に行けるように、当たり前の生活に戻してやる事も、医者の仕事なのだよ」
 自分の不甲斐なさを棚に上げた文言だった。本当は、失った生命を悔やんでばかりで、なかなか前に進めない癖に。患者が亡くなれば、食事も喉を通らない癖に。遺族の冷たい糾弾するような視線に、耐え切れない癖に
 どこかそんな事を見透かしたような宮地さんの蜂蜜色の瞳は、一旦俺を捉えると離さない。
「お前、随分と痩せたな」
「そうですか?」
「寝てるか?」
「まぁ、眠れる時には」
 身体の大きさに対して不適切とも言える食事内容と、小休止みたいな睡眠時間、申し訳程度の休暇と携帯への呼び出し。宮地さんの質問に答えると、自分の酷い有様が露呈する。
「顔色も悪いし、声にハリもない。このままじゃお前が倒れるぞ」
「仕事ですから」
 傍らにあった朱莉ちゃんの短冊に手を伸ばし、タコ糸を通すと、笹の頂点に結びつける。背伸びをせずとも届くそこに手を伸ばした刹那、足元が大きくぐらついた。
「緑間!」
 よろけ、咄嗟に手をついた会議用のパイプ椅子はガタンと大きく音をたてる。ひらりと舞った一枚の短冊は、枯れ葉のようにゆっくりと、リノリウムの床に滑り落ちた。
「すいません、大丈夫です」
「大丈夫じゃねぇだろ、ちょっと座ってろ」
 宮地さんが鞄から取り出したのはゼリー状の栄養ドリンクで、無言で突き出されたそれを受け取ると、スクリューキャップをカチと開く。化学的な匂いのするゼリーを口の中に流し込むと、グレープフルーツの味がした。飲み下し、しかし一口で、既に飲む気が失せてしまった。
「相当弱ってんな」
「はぁ、まぁ」
 曖昧な返事は宮地さんの鋭い視線に捉えられ、素直にならざるを得ない。
「疲れてます、ね」
「ちょっとそこで、俯せて寝てろ。短冊付け終わったら起こすから」
 有無をいわさず言い切った宮地さんに苦笑し、「はい」返事をすると俺は、嘘っぽい木目が並ぶ会議テーブルに突っ伏し、目を閉じた。
 誰かに「眠れ」と言われて睡眠をとるなんて、いつぶりだろうか。誰かに見守られながら眠るのは、いつぶりだろうか。
 ふわ、と肩に掛かったのは、どこか懐かしい香りがするカーディガン。まだ人のぬくもりが残るそれを纏うと、冷房に遮断されて、まるで誰かに寄り添ってもらっているような心地になる。
 笹が揺れる音と、時折聞こえる鋏のぶつかる音を耳にしながら、気付けば俺は、深い眠りに誘われて行った。

 聞き慣れた携帯電話の呼び出し音に現実へと引き戻される。
「緑間です」
「あ、真ちゃんセンセ。405のこずえちゃんが、お腹痛いってさ」
 高尾の声を聴くに、急を要する訳ではなさそうだが、「分かったすぐ行く」そう言って立ち上がる。
 テーブルの上、余った短冊には、見たことのある線の細い文字が並んでいた。
『明日まで休みだから、明日もまた来る。ゆっくり休めよ』
 隣にはメロンパンが添えられていた。
 随分と眠っていた気がするが、時計を見ればそうでもない。ぽっかりと空いた時空の隙間に取り残されていたような、そんな不思議な感覚を伴っていた。

     *

「お、真ちゃんセンセ、おはよ」
「その呼び方は止めるのだよ」
 朝のミーティングを終えた高尾が、聴診器を首に駆け寄ってきた。高尾は子ども達から「和くん」と呼ばれ、人気がある。こいつも宮地さん同様、子供が好きで好きでたまらないといった感じが見て取れる。
「昨日の笹、プレイルームに飾ったから、今頃子供たちが群がってんじゃね? 見に行ってみます? センセ」
 満面の笑みでプレイルームの方向を指差す高尾は、俺の返事など一つも聞かずに歩き始めた。医局に置いてくる筈だった研究資料をそのままに、高尾の後に続く。

 高尾が言うとおり、短冊の周りには子供たちが群がっていた。背が届かない短冊を見るために、椅子を持ってきたり、大きい子が小さい子を抱き抱えてあげたりしている。
 不意に気付いた。短冊の数が、随分と多い。空色、桃色、黄色だった短冊に、黄緑色の短冊が加えられていた。
「高尾、何だか様子がおかしいのだよ」
「変だと思ったら、近くで見てみればいいんじゃなーい? 真ちゃんセンセ」
 靴を脱ぎ捨て、絨毯敷きのプレイルームに足を踏み入れる。笹に近づけば、笹に向いていた子供たちが一斉に俺に振り向いた。
「真ちゃん先生、これ見て! すっごく沢山あるんだよ?」
 女の子が自分の願い事が書かれた紙と、もう一枚の黄緑色を手に取り、見るようにせがむ。眼鏡のブリッジに指をかけ位置を直すと、短冊を凝視した。
 桃色の紙には「パン屋さんになりたい」。
 そして黄緑色の紙には、漢字と平仮名がアンバランスに混在した幼い文字でこう書かれていた。
「しんちゃん先せいが元きになるように」
 彼女の艶やかな黒髪に触れ、撫で下ろすと、擽ったそうに笑った。
 次に手にとった黄緑色も、その次の黄緑色も、一言一句同じではないにしろ、同じ内容の願いが書かれていた。
「美鈴ちゃん、誰がこの短冊、くれたのかな?」
「黄色い髪のお兄さん。お願いごとは3つまでいいんだよって教えてくれたんだよ」
 振り返れば、歯を見せてニヤつく高尾の隣、背の高い蜂蜜色の髪が艶を湛えて揺れている。
「ほら見て! 一番上!」
 周囲よりも少し背が高い男児が指し示すのは、朱莉ちゃんの短冊。その隣にある黄緑色には、昨日も見た線の細い文字で書かれている。
「緑間先生が元気になりますように。あかり」
 重なるように連ねられた黄緑色の短冊には、朱莉ちゃんや空良君、つい最近亡くなった子供の名前が揃っていた。
 遠くなる、子供たちの声。亡くなった子供の笑顔。叶えられなかった夢。
 7月7日は、奇跡が起きなくてもやってくる。しかし、その日に願いを込めることが出来る身体でいる事は、奇跡かもしれない。人生、何があったって、おかしくないのだ。
 気付けば子供たちはいつの間に散って、各々の遊びを始めている。
 靴を脱いだ宮地さんが、静かに静かに、こちらへ歩み寄り、黄緑色の短冊の一つを手にした。
「親はどうか知らねぇよ。でも、子供達は自分を懸命に治そうとしてくれてた先生が、自分の死でどんどん元気をなくしていく事なんて、望んじゃいねぇんじゃね? 大好きな真ちゃん先生が、救える命をどんどん救って元気に活躍してくれる事の方が、いいんじゃねぇかな。俺、当事者じゃねぇから、偉そうなこと言えないけど」
 空良君の名が入った短冊を手に取り、見つめる。この文字は、高尾の文字。次の一枚は、宮地さんの文字。震える指先で、その文字をなぞれば、支える左手まで、僅かに震えた。
「俺はおこがましかったのかもしれません」
 ん、と頷きに似た声で先を促す宮地さんは、浅く笑みを浮かべている。
「治らない筈がない、治せないはずがないと思って治療をしていました。それは必要な気持ちだろうけれど、俺は決して万能じゃない」
「そうだよ、ちょっと頭がいい捻くれ物の運命論者、だろ?」
 巧く笑えなくて、今、力を抜くと何かが溢れそうだった。込み上げるものを押し込めて、「そうです」低く出した声も、気付かれない程度に小刻みに震えていた。

     *

「本当は子供たちにもこの星空を、見せてやりたかったのだよ」
 都会の光を浴びてしまった夜空は、その全貌を容易には晒してくれないけれど、ベガとアルタイルの間にはしっかりと、仄白い天の川が流れているのであろう。
「退院すれば見れるって」
 屋上の柵に身を預け、二人夜空を見上げる。ベガとアルタイルは今宵、天の川を通って、1年に1日しかない再会を喜び合うのだろう。少し冷たい夜風が、二人の隙間を通り抜ける。捲っていた袖を、長袖へと戻した。
「緑間ってさぁ、絶対小児科医にはならないと思ってた」
「どうしてですか」
 んー、と言葉を詰まらせ、鼻をすんと吸う。
「良くわかんね。でも、昨日と今日、お前が働いてる姿見て、子供に囲まれてるお前も、お前に頭撫でられる子供も、何つーか、いいなって......褒めてんだぞ! 有りがたく思え」
「本当に褒めてるんですか、それ」
 耳まで真っ赤に染まった宮地さんはどこかぎこちない表情で、でもそれがとてつもなく愛らしく、愛しくて、すぐそこにいるのにずっと手の届かないどこかにいるようにも思える。
「あのさ、飾ってあった笹って、どーすんの?」
「一枚ずつ取り外して、来年まで保管しておきます。来年になったら、退院した子には郵送で送ってあげるつもりです」
 ふーん、意味ありげな頷きを見せた宮地さんは、なにか考えてる風体で腕を組み、「じゃぁさ」俺の顔を覗き込む。
「一枚一枚きちんと見てけよ。俺と高尾の素晴らしい短冊が混ざってるからな」
「あ、外して持って帰ります?」
「いらねーよ、見たら捨てろ」
 屋上の小さな灯りの下、僅かに頬を染めたような宮地さんが女性のように綺麗で、思わず見つめると、「何」怪訝に向けらた顔に今度は俺が、赤くなる番だった。
 夜風に揺れる甘露飴みたいな髪の毛と、灯る光が揺れる瞳は語り尽くせないほど美しく、吸い込まれそうで、目を細めて笑んだ彼の肩に、思わず、触れてしまった。指先で感じる、体温。
「なぁ、緑間」
 触れてしまった事を咎める事無く、幼子に話しかけるように紡がれる彼の言葉に、手を離すタイミングを失う。
「は、い」
 彼が動いた瞬間、俺の手は肩から離れ、鼓動を強める胸に向かって飛び込んできたのは、宮地さんだった。思わず伸びる手は、彼の暖かな背に。
 無意識のうちに、しっかりと抱きしめていた。

「緑間さ、俺の、アルタイルになって」

 遠くから、胸の奥を震わせるような低音が聞こえてくる。花火だろうか。その音をも凌ぐほど、俺の鼓動は強く、きっと宮地さんの耳には痛いほど聞こえているのだろうと思うのだけれど、不随意に高まる心音に、為す術がない。
 背に回した腕に、ぐっと力を込め、彼の耳元に口を添わせる。
 一際大きな重低音が、鼓膜を揺さぶる。その刹那、小さな声で、呟いた。

「俺のベガになってください」

     *

 取り外した笹から、一枚ずつ、短冊を取り外す。あまり目立たない、笹の中ほどに、まだ見ていない宮地さんの文字で書かれた短冊を、見つけた。
 誰もいない部屋で俺は一人、悲しくもないのに涙で息をつまらせた。

「7月7日、緑間真太郎の誕生日を、この先もずっと二人で祝えるように」