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 いつも隣にいる二人だから、その関係性を信じて疑わなかった。
 可能性は限りなくゼロで、それでもいいから無意識に追っていた。

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 練習が終わった体育館。逆サイドで床に橙の球体を跳ねさせているのは、いつだって緑間だ。いや、橙が跳ねている時間は案外少なく、振り向くと大抵、橙の球体はその回転を無にしたまま、大きな大きな弧を描いて、網の中に吸い込まれる。擦れる音の直前まで緑間の周囲は、無音になる。
 居残りなんてしなくても、コイツのシュートは落ちない。それでも緑間は毎日、逆サイドを占領し、時々俺の集中力を削ぎ落とす。
 否、それは緑間のせいではないのか。
「しーんちゃーん、まだ終わんねぇのっ?」
 仰々しい扉の音に目を移すと、足取りの軽い男が一人。学ランに着替えた彼の手には、折り畳み傘が握られている。心臓が、一つ鼓動を強める事に、気付かぬふりをした。
 はて、雨の予報だったのか。体育館にいて動かずいると指の先が悴む気温、雨が降れば、雪に変わる可能性も無きにしもあらず。ぼんやり考えながら、指先に力を込めて、ボールを押し出した。
「何なのだよ、高尾。邪魔だてならいらなのだよ」
「邪魔だてってなんだよ真ちゃん。雨降ってきたからコ・レ! 貸してやろうと思ってさ」
 チラと視線をやった手に握られた紺色の折り畳み傘が、緑間の手に渡る。そうか、やはり雨か。胸の中のざわめきをひた隠しにするように、俺はボールを拾いつつ、二階の窓を見遣った。LEDを反射した窓からは、雨の存在が確認できない。良い、もう少ししたら帰ろう。
 彼らの、ためにも。
 集中力が切れた、自分のためにも。

 辺りに転がったボールを拾い集めている時に気付く。頬に、ちりちりとした熱を感じる。そういえば、レイアップをした時の腕の動きが、可動域を狭めたように重かった。心なしかボールの重力が増したようにも思えてくる。
「あ、宮地さん、あがりっすか?」
 無理矢理四個のボールを抱えながら無言で頷いた拍子に、滑り落ちたボールが四方に転がった。
「なぁにやってんスか、宮地さん。俺も手伝いますよ」
 微笑みながら、それと分からない程度の溜息をついた高尾は、ボール籠に向けて短いシュートを放ち、ニヤリと笑う。
「この方が、拾い集めるより早いッスよ」
 なぜだか今日は、彼の言うことに肯定も否定もしたくなくて、言葉を交わす事も、できればしたくなくて、言葉を作らない口を少し開けただけで、そこまで来た声を喉に流し込んだ。
「真ちゃん、いつまでやるんだよ。もう帰ろうぜー」
「勝手に帰れ、馬鹿め」
 いつもの遣り取りなのに、今日は聞いていたくない。

練習が終われば、彼らは、きっと二人で。

******

 凍て付くほどの寒さとはこの事か。防寒のために持ってきたヘッドフォンを耳にあて、商店街を歩く。降り出した雨は時折、風で頬を掠めた。僅かな刺激で雨を雪へと変えそうな、そんな気温に身震いする。
 右を見ても左を見ても、綺羅びやかに着飾った木々達が、これみよがしに俺の視界を占領する。ケーキ屋の前にせり出したワゴンでケーキを売る、サンタ姿の青年に声をかけられた。ちらと見遣り、首を振って再び歩き出す。
 身体は寒いのに、火照りが消えない。十中八九、予想的中。こんな時期にストバスに誘う高尾が悪い。
 ぼうとする脳内で、否応なくエンドレスリピートされるクリスマスソングを断ち切るため、携帯の音楽再生をオンにすると、毛玉が散見される手袋をはめた手を無造作にポケットへ突っ込み、歩き始めた。

 クリスマスなんて無くていい。そんな風に思ったのは今年が初めてか。今頃きっと、俺の事なんてこれっぽっちも思い出すこと無く、二人は時間を紡いでいる。それは、極自然な光景で、誰が見ても普通の光景だ。俺が入り込む余地はない。それが男同士だとしても。
 邪な思いは透けて見える。やめよう、思考回路を停止。
 息を吐けば、己から出た白い雲が、すぐさま空中に拡散し、消える。
 思い浮かんだ事柄が、こんな風に散り散りに消え去ってくれたらいい。そうすれば彼の事で、脳内を占拠されずに済むのだ。
 アーケードを抜けると、幾分落ち着きを取り戻す町並みに、ちらほらと電飾が瞬いている。雨のスリットを通した電飾は、綺麗と思わない事もない。ほぼ不随意に動くスニーカーの歩みを見つめながら、俯き、歩いた。

 玄関灯は灯っている。母は帰宅しているらしい。少なくとも、ひとりきりのクリスマスイブだけは避けられたようだ。ま、家族と過ごすクリスマスイブがどれ程の意味を持つのか、今の俺には解らない。

 玄関を開けた所で、急激に足の力が抜けた。鞄が仰々しく床を叩く音で、母が物凄い形相をしてキッチンから駆けて来る。
 俺は風邪をひいたらしい。熱があるらしい。

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 インターフォンの音で目を覚ます。家族が対応するだろうと俺は横になっていたのだが、誰かが出る様子もない上に、インターフォンは鳴り止まない。大きく一つ溜息を吐くと、乱雑に布団を蹴り落とし、玄関に向かった。これで新聞勧誘やら宗教やらだったら、轢く。
「はい」
 通信のキーを押すと、画面に意外な人物が映し出されていた。
「宮地さん、大丈夫ですか?」
 通信を切ると、摺り足で玄関へと向かう。足取りが重い。風邪で身体が重いせいだと思いたい。彼が誰とここに来たかが容易に想像がつくから、ではない事を祈りたい。
 レバーを下げればそこに、畳んだ傘を手にした高尾が立っていた。
「おう、どうした?」
 さっと見回した家の周りに、緑間らしい影はなかった。一人で来たという事か。
「どうした? って、宮地さんこそどうしたんですか? 風邪とか、ブフォ!」
 品のない笑い声に俺は頬を膨らます。
「お前があのクソ寒い中ストバスなんて誘うからだろ、吊るすぞ」
 覇気がない俺の様子が可笑しいのか、高尾はケタケタと笑い続けている。
「で? 何の用だ?」
 笑い顔をすっと引き締めた高尾は、背後に持っていたらしい小さな袋を目の前に突き出すと、「見舞いです」という。
「見舞いっつったって、俺、甘いもん好きだけど流石に今、ショートケーキ二つなんて食えねぇよ」
 コンビニのロゴが入った袋の中に見えたのは、苺が乗ったショートケーキだった。
「違いますよ、俺も食うんです。上がってもいいですか?」
 片手でドアを支える俺の胸に、飛び込むように一歩踏み出した高尾に驚いた俺は、拍子にドアから手を離し、あたかも家に呼び入れた形になってしまった。
「上がるってお前、風邪うつったらまずいだろ?」
「どんだけ濃厚に接触しようとしてんですか? うつりませんよ」
 瞬間、血液が重力に逆らって顔に集中する感じがした。何を言い出すのかと思えば。部屋のドアを開けて高尾を押し込むと、呼吸を整えつつ俺は台所で茶の用意をした。

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 茶を淹れると、布団を直した。日頃殆ど散らかさない部屋に、こうして急な来客を招き入れる事は難しくないが、相手が高尾とあらば、精神的に......。 「宮地さん、昨日は誰と過ごしたんですか? クリスマスイブ」
 口に運びかけたケーキを一旦離し、「ベッド」と答えると、高尾は吹き出した。
「一人だったんすか! 何だ、てっきり木村さん達とクリパでもしてんじゃねぇかって、真ちゃんと言ってたんスよね」
 耳にしたその名前に、何か苦いものでも噛んだような妙な感覚に陥る。
「お前、ら、は何してたんだよ」
「らって何すか。俺は家で過ごしましたよ。振られちゃいましたから」
 視線を合わせず、ケーキの苺を突付いている。
 振られた。緑間にか。あいつもなかなかやるもんだ。俯いてケーキを突付く高尾をじっと見つめると、案外彼の睫毛が長い事に気付く。そしてまた、緑間の睫毛の事を考える。自虐的な思考回路に苦笑した。
「緑間とお前って、そういう関係なんだろうとは思ってたけど、そうか。振られたのか」
 振られた、どこかその言葉に、安堵なのか、喜びなのか、得体のしれない感情を得た俺は、顔のどこかにそれが表れないよう、顔を引き攣らす。
「は?」
 顔を上げた高尾は、穴が空くほど俺を見た。実際に数ミリ開いたかもしれない。
「緑間と俺はそういう関係じゃ無いっすよ。尊敬はしてますけど、てか、皆そう思ってますー? 勘違いしすぎだし、ブハッ!」
 破顔した高尾は、腹を抱えて笑い始めた。どこにそのような笑いの沸点があっったのかわからないが、とにかく彼は笑い転げている。
「傘貸して、家まで送って、そのままクリスマスパーティでもやったんじゃねぇかって思ってたよ、俺は」
「あの真ちゃんが、クリパなんてやると思います? 宗教行事には興味が無いのだよ、で却下ですよ、間違いなく」
 あぁ、そうだな。俺はふわふわした返事をし、茶を一口含んだ。
「昨日宮地さん、傘持ってました?」
「ん? 持ってねぇよ?」
 差し出された会話のパスに、不可解な顔を示すと、高尾は「ふぅん」と宙に浮いたような返答をする。
「何でだよ」
「いや、俺の傘貸そうかと思ってたんですよ」
 まだ寝癖が抜けていない髪をくしゃと潰しながら「お前は?」と訊ねる。
「お前はどうするつもりだったんだよ。緑間に傘貸して、俺に傘貸して、お前の分はもう一本あったのか?」
 再び俯いた高尾は、口端に笑みを浮かべ、左右に首を振る。
「何だそりゃ」
 息を吐きだすみたいに笑った高尾は「トイレ貸してください」と言って立ち上がった。

******

「もっと、アイドルのポスターとかが貼ってあるドルオタ全開の部屋を想像してましたけど、案外スッキリした部屋なんですね」
「まぁな。勉強の邪魔になっても困るしな」
 手洗いから戻ると床ではなく、ベッドに腰掛けた高尾は、俺のすぐ背後にいた。顔を見ずして会話ができるのは、今の俺にはありがたい。彼の一挙手一投足で、頬が紅潮しかねない。
「さっきの話、俺と真ちゃんがそういう関係だって、宮地さんも思ってます?」
 湯のみを口元で止め、暫し沈黙を遣り過す。それから声を出さずに首肯した。
「そっかー。きっと皆そう思ってるんだよな。寂しいなぁ」
「いや、違うんならそれでいいんだ。悪い気分にさせちまったな。悪かった」
 背後にあった柔い空気が、何となく変わった。それは何となくで、俺の思い過ごしかもしれないし、酷くどうでもいい事象かもしれないし、だから敢えて後ろを振り向かなかった。しかし、雰囲気が変わった事に違和感を覚えた。

 一分か二分か、或いは五分だったのか、長くも短くも感じられる沈黙に、俺が茶を啜る音だけが響く。
 緑間との間を誤解されることは、高尾にとってあまり嬉しく無いのだという事、彼らは「そういう」関係ではない事、それは分かった。と、あらば、彼は女にでも振られたのだろうか。高尾のスペックの高さなら、寄る女は掃いて捨てるほどいるであろうし、実際、学内で女生徒に声をかけられている所を数回、目撃している。そうか、女に振られて、慰めて欲しくてここに来た、のか。
「お前さ、あんまり気に病むなよ。女なんて腐る程いるし、お前なんて選び放題だよ、な?」
 だが、背後のひんやりした空気からは声が発せられず、仕方なく俺は、はなはだゆっくりとした動作で、後ろを振り向く。にこりともせずにこちらに双眸を向ける高尾が、そこに座っている。何となく目を合わせているのが居た堪れなくなった俺は、目を伏せ、前を向き直った。
「女にふられたんじゃないですよ、宮地さん」
 空気とは裏腹の、酷く穏やかな声。その声は、いつもの軽々しさが微塵も感じられない、子供を諭すような優しい声だった。
「お前の言ってる事、先が読めねぇんだけど」
 軽く笑った高尾は「ですよねー」と言ってまた笑う。エアコンが稼動音を上げ、俄に騒がしくなる。室温が変わったのかもしれない。

「俺ね、宮地さんに傘貸して、一緒に入って帰ろうと思ってたんですよ」
 硬いもので後頭部から一撃を食らったような、そんな衝撃を受けて、俺の視界は一瞬、暗転した。軽口を叩こうにも、肺に流入する空気は声帯を揺らさず、只々呼吸だけに消費される。開けた口は、魚のように開閉するだけで、何も発する事ができない。高尾は、静かに、穏やかに続ける。
「雨でチャリが使えなかったから、真ちゃんとは別々に帰ったんですよ。で、宮地さんと一緒に傘に、って俺、思ってたのに、宮地さん先に帰っちゃったから......」
 立てた膝に顔を埋める。何を言っているのだこの男は。嬉しい筈なのに、それを素直に額面通り受け入れられない自分がいて、腹立たしい。彼の顔を見れば、本気なのかどうか判明するかもしれないが、そんな勇気もない。うずめた顔の下で、また口をパクパクさせる。酸素が足りない魚のように。
「クリスマスイブだから、宮地さんとハニトーでも食って帰ろっかなーとか、雪が降ってきたら雰囲気いいなーとか、俺、真ちゃんとじゃないんですよ。宮地さんとの事考えてたんすよ」
 うずめた頭をくしゃりと撫で、「あ、あ」と現実に発声出来る事を確認する。俺とイブを? 相合傘でイブを? 嘘だろ?
「宮地さん、黙ってるのズルいっすよ。何か言ってくださいよ。迷惑なら帰りますから」
「め、迷惑だなんて誰も言ってね......」
 思いの外、攻撃的な声が出て俺は、振り向いた瞬間に口を押さえた。
「顔、真っ赤ですよ、宮地さん」
 髪を振り乱すように前に向き直り、再び膝に顔を埋める。
「てっきりお前が緑間と」
「だからバータ扱いすんのやめて下さいよ」
「実際ニコイチだろ」
「言葉古いっすよ」
 掛け合いに、徐々に肩の力が抜ける。俺は膝から顔を引っこ抜くと、水面に顔を出した潜水士みたいみ上を向いて呼吸をすれば、「あー」と言葉にならない声を漏らした。
「あー、だから俺が入り込む隙は無いと思ってたから、あれだ。いや、そういう事言ってもらえると、なんつーか、嬉しいもんだな、ってか......」
 背後に、ふんわりと俺を包む空気が移動したと思うと、残る微熱よりも少し暖かく感じる体温が、俺の背中に密着した。回された腕は、膝に重ねた俺の手を包み込む。
 暖かい。
「秀徳は皆好きです。でも、宮地さんは格別ですから」  ゴン、俺の手に重なった高尾の手の甲に額をぶつけた。今の顔は、最高に恥ずかしい顔の筈。このような赤面は生まれてこの方経験していないと思う。
「はぁぁぁぁぁ、高尾、恥ずかしく無いか」
「恥ずかしいですよ、当たり前じゃないすか」
 耳のすぐ側にある高尾の声が、くすぐったい。思わず「んはっ」と笑いが漏れた。
「宮地さん」
 ささやかれた声の方に顔を向ける。そこにある目鼻立ちの整った彼の顔が、すっとこちらに近寄ると、そこで数秒、静止した。
 柔らかい感触が、唇に押し付けられ、そこを吸い取って行く。二人の唇は、名残惜し気に少しずつ、互いを離れていく。
「俺、帰りますね。そろそろ」
 やや引き攣った顔で笑んでいる高尾の顔は十分に赤くて、こんな高尾は見たことがないと思うと余計に愛おしく、俺は立ち上がった彼の手を引きながら正面に立った。

十五センチの身長差は、抱き寄せるには丁度良く、口吻を落とすにも丁度良い。彼の口元に指を遣り、少しこちらへ引くと、今度は俺がキスをした。

「秀徳は皆好きだ。でも高尾が格別だ」

 不意に視線を移した窓の外、純白の真綿が、旋律も奏でず静かに静かに、空から舞い降りていた。
 そういや、今日はクリスマスだったか。
「メリークリスマス」
 抱きしめる力を強くすると、それに応えるように背に回った高尾の腕がぎゅっとなった。

******

「あれ、高尾は?」
 シューズの紐を結ぶ木村に訊ねると、振り向いた木村は、あぁ、と発して続ける。
「風邪だってよ、珍しい」

 上気した頬を誰にも見られまいと、暗い体育倉庫に入った俺は、一人跳び箱に額を打ち付けてニヤけていた。