痛覚メランコリー
【暖かな傷跡】

 そろそろ部活が終わる頃だろうと思って訪れた。
 俺の自主練は一足先に退散して、久々にアイツと夕飯でも、なんて気もそぞろ、門柱に凭れ掛かり参考書を手にする。
 アイツだってきっと自主練で、他のチームメイトは帰った後だろう。とぼとぼと門に歩いてきた所を、驚かせてやろうという浅はかな魂胆だった。
 夕暮れというにはまだ早く、遠くに広がる入道雲。ここ数日俺たちを困らせたゲリラ豪雨も、今日ばかりは遠慮してくれているようで、青い空はほんの少しだけ、無果汁のオレンジジュースを薄めて零したみたいな西の空。

「でも、先生は違うって言うんだよ?」
 聞こえてきたのは、女子生徒の話し声。ローファーの踵がコツンと響き、その隙を縫うようにまた、別の足音。
「俺が教えたので間違いないって。信じろってば」
「えー、宮地君って案外変なところヌケてるしー」
 ブレザー姿の女子生徒は、まるで跳ねるみたいにスカートを揺らして、俺の真横を通り過ぎて行く。彼女の頭から一つ抜けだした宮地の飴色の髪は、これもまた跳ねているみたいに幸せそうで、思わず目を背けた。

「じゃ、俺こっちだから」
「ん、また明日も教えてね。それじゃ」
 女子生徒は華奢な腕をひらりと振って、車用信号を見て道の向こうへと走って行った。
「宮地?」
 俺の声に振り向いた彼は、馬鹿みたいに瞠目して、少し驚いているようで、少し怯えているようで、その動揺は空気に溢れて流れ出しそうだった。
「随分と楽しそうに、してはったな。あの子の事、好きなんか」
「違う」
 ぶっきら棒の裏には何もなさそうで、しかし彼ら二人の間に流れる空気は、俺の手の届かないそれであったような気がしてならなくて。
「好きじゃないっていう、証拠は」
 宮地は黙ったまま、大きなエナメルを背負い直すと、白いスニーカーの爪先で道端の雑草を踏みつける。草熱れみたいな匂いが、風にそよいで鼻を突くのが不愉快だった。
「……そろそろ、やめようかって」
「何がや」
「関係。無理があんだろ。男同士でさ」
 唐突に、喉の奥が詰まった感覚があって、随分と長いこと酸素が吸えなかったように思う。それでも俺は、俯いた彼の美しい横顔を見つめ、現実に向かい合う。
「せやかて今まで普通に」
「普通じゃねぇよ。いろんな事我慢してお前と付き合ってんだよ」
「何や、してやってるみたいなセリフやな」
「お互い様だろ。もう、終わりだ」
 俯いた顔は、少し傾きかけた夕日が逆光となり、一層暗く影を落とす。どことなく冷たい風が、半袖の腕を掠めていった。
「ワシの事、嫌い、になったんか」
 長い睫毛が、羽ばたいた。瞬きの一つ一つが永遠を知らせるみたいに長くて、国道を走る車のエンジン音が、数分、続いた感覚。
「……そうだな。それでいいよ別に」
「それでって」
「嫌いになった。だから終わり」
 踵を返すように、すっと身体を翻して揺れた飴色の髪。黒い学ランは背中しか見えなくて、少し丸めた背中は俺の事なんて一度も振り返る事がなく、国道沿いをずっとずっと、歩いて行った。
 俺はそれを見つめている事しか出来なかった。現実に起きている事を現実として受け入れられなくて、「嘘だよ」なんて言って彼が走り寄って来るんじゃないか、そんなご都合主義な妄想ばかりに支配されて、早くこっちを向け、そう念じるのだが。
 国道の向こうに、消えた。

 彼と出会った春のパステルが、夏のビビッドへと変遷していったように、次に向かうは秋。
 モノクロームの季節が、俺達二人にも、到来する。


【痛覚メランコリー】

 アイツは最近、コンビニのバイトを辞めた。丁度一ヶ月前の事だっただろうか。
「割のいい仕事が見つかった」
 俺にそう言って、緑色の制服を押し付けたアイツは、少しずつ、大学の研究室にも顔を出さなくなった。
 研究は既に佳境に入っていて、あとは細胞が育ってくれさえすれば、結果と考察、そんな物を適当に付け加えて終了だ。だからアイツが卒業できないとか、そんな事にはならないだろう。
 それにしても。
 半月ばかりはめっきり、顔を合わせていない。

 駅前の商店街を通り過ぎ、初秋の風を顔面に受けながら、緑の車用信号を見て道を横切る。目の前に建つ、少し古いアパートの角部屋に、洗濯物が干しっ放しになっていた。
「あかん、すっかり忘れてた」
 誰にともなく呟けば、秋風が声を攫って行く。
 裏手に回り込み、寒々しい金属の階段を上る。ブーツの踵が甲高い音を立てるのが嫌で、爪先立ちの足。
 と、目の前に見えてきた自室の玄関に、凭れ掛かるように座り込む、一人の人影があった。
「あれ、宮地か?」
 声を掛ければその人影は、力なくふわと左手を挙げ、しかしその顔は項垂れたまま、モッズコートに埋まっている。
「何や、元気ないなぁ。クビにでもならはったか?」
「今吉ぃ、泊めて」
 くぐもった声に当たり前のように「ええよ」と返せば、重力に辛うじて勝った頭部が少しずつ持ち上がる。
 白く透き通るような肌に端正な顔立ち、のはずが今日は、そこここに赤黒い痣が点在し、左の瞼はまるでボクサーみたいに、腫れていた。
「どないしてん……」
「バイト」
「は? 訳分からへん。アンタのバイトってサンドバックかいな」
「ちげぇよ。とにかく、一晩泊めてよ」

「風呂、沸いたで。先入りや」
 脱衣所も無いユニットバス。着替える所なんて無くて宮地は、狭いベッドに着ていた服を脱ぎ捨てた。靭やかな筋肉が浮かび上がる背中にも、いくつもの赤黒い痣が見えている。余りにも痛々しいその色に、顔を顰めた。