夜桜メロウ
【偽善的パレード】

 夕刻、急激に激しさを増した雨が傘を叩く音に、後方から誰かが駆けてくる足音が重なり、ふと、歩みを止める。
 振り向けば、傘もささずに雨ざらし、肩で息をする宮地さんが立っていた。綺麗な甘露飴みたいに輝く筈の髪色は、雨と雲のせいでミルクティのようで、しかしそこから滴る雫は、葉桜の緑を写す透明な宝石のように見え、神秘的にさえ思う。
 あっという間に俺の横に滑り込むと、膝に手を付き、息を上げている。
「傘は、どうしたんですか」
「ゲリラ豪雨になるなんて知らねーよ。傘なんて持ってきてねーよ」
 学ランに付着した水分を手の甲で払えば、雨とは異なる方向へと、飛沫が飛び出していった。
「おは朝占いの後の天気予報で、ゲリラ豪雨に関して言及していましたよ」
「うっせー、世の中の誰もがおは朝見てると思うなよ、轢くぞ」
 雨のせいで身体が冷えたにしては、少し赤みの強い彼の頬を気にしつつ、門を出た。

 長身の男が二人、こうして狭い傘に身を寄せていると、否が応でも触れる肩。刹那、痺れに似た感覚を覚え、妙な汗を感じる。対して宮地さんは、何も気にしていない様子で歩きながらスマートフォンを操作し、とあるアイドルの画像を俺の目の前に表示した。
「お前、こーいうの興味ないんだろ」
 芸能に疎い俺でも、おは朝で幾度か見た事のある女性の画像に、しかし大した興味はなくて、それと分かる程度の首肯をして見せる。
「何かさ、疲れたなぁとか思った時、みゆみゆの画像見ると元気が出るんだよな」
「それで、今は元気、出ましたか?」
「いや、何か調子悪いんだよな。身体がホカホカすんだよ」
 きっと水に濡れたままなのだろう、薄暗くなった道を照らす街灯が、激しい雨を突き抜け、彼の学ランの表面に不自然な艶を作っている。横殴りの雨は、傘を持つ手にまで届く。
「画面、濡れますよ」
「だよな。しまうか」
 雨の掛からない側のポケットにスマホをしまう。俺の顔のすぐ傍を彼の髪が掠めていった。雨の匂いの中に、ふわと漂ったのは、シャンプーの香りだろうか。
「あー、何かすげえ怠いし、何だろ」
「風邪じゃないんですか? 一体いつから傘をさしていないんですか」
 暫し逡巡し、それから何かを思い出したかのように「あ」と漏らす。
「掃除当番のゴミ出しがてら帰ろうと思ったら、雨が降り始めてさ。んで、ゴミ置き場の鍵が閉まってたから、用務員さんを呼びに行ったんだよ。そしたら、鍵持って行くから待ってろってあのおっさんが言うから待ってたんだけど、全っ然来ねぇの。雨の中よぉ、ずっと待ってんのに。したら、今しがた嫁さんが出産したとかで? 傘の事なんて忘れて、雨の中二人でガンガン跳ね回ってお祝いしてたね。で、ごみ捨てして、今に至る」
「風邪ですね」
「冷たっ」
 それから暫く歩き、自宅の目と鼻の先ぐらいまで来て気づく。宮地さんの様子が少しおかしい。唇を青くして、歯をガタつかせている。
「宮地さん?」
「緑間ぁ、何かクラクラする」
 そう言って、俺に凭れ掛かるように倒れ込んできた彼を支えると、「歩けます?」声をかけた。コクリと頷いた彼の腕を俺の肩に回すと、引きずるようにして誰もいない自宅に帰宅した。

 彼の事が心配だった。それは嘘じゃない。
 でも、彼に近づく理由が出来る、そう思ったのも嘘じゃない。

 俺は、偽善にまみれている。



【壊れかけアベレーション】

 自由に水の中を泳ぐ熱帯魚のように掴みどころがなく、手に触れればすり抜ける、そんな君が確かに、好きだったんだ。
 どんなに、君が汚れても。

     *

 いつもと同じ携帯に掛けた電話に、いつもと同じ声音の緑間が応答し、いつもと同じ白色のドアを開けていつもの部屋に入れば、そこに広がる非日常から目を背け、俺は緑間が直面している非日常の中に片足を突っ込んだ。
 医者を志す者にしてはお粗末過ぎる行動に軽く目眩を覚えつつ、ユニットバスに足を踏み入れれば、もともと血色が良いとは言えない色白の肌を一層青白くした緑間の左手を、浴槽から引き出した。紅く染まったその手を眺めた緑間は、頭痛でもするのか額をひと拭いし、それから深海に沈み込むみたいに俺に凭れかかってきた。

 酷く違和感のある静寂に耐えかね、スマートフォンを操作すれば、親父がよく聴いていたアーティストの七枚目のアルバムジャケットをタップする。スネアの引き立つドラム音と共に、場違いで軽快な音楽が、流れ始めた。
「この状況で......生にしがみつくなんて、馬鹿げてますよね」
「死ねないからって俺に電話かけてくんなよ。轢くぞ」 
 言葉とは裏腹な俺の表情を読みとった緑間は、まるで貰ったキャンディと引き換えに幼子が見せる笑顔みたいに、はにかんでみせた。
 俺の膝に横たわった緑間の翡翠色の髪は重力に流されて、日頃見ることの出来ない、意志の強い眉をしっかりと見せている。流れた前髪に触れ、額をひとつ撫でる。脂汗でもかいていたのか、予想外に少し冷やりとした感覚に、動揺する。
「換気は、止めたんですか」
「あぁ、止めた」
「本当に……」
「いいんだよ、俺が決めた事なんだから」
 幾分鉄臭い匂いが鼻をつくようになってきた。浴槽に流れ込んだ緑間の血液か、それとも。
 彼の手首に視線を移せば、未だじわりと染み出す紅が、フローリングに水たまりを作っている。それは紛れもない現実なのに、まるで絵の具みたいに現実感を纏わせない。
「何か、食いたいものとか、あるか?」
 暫し逡巡し、それから「いいえ」と首を振る。体格の割にあまり食わない上に、この状況では、当然だ。
「欲しいものがあったら、言えよ」
 翡翠色に、指を通す。俄に湿っているかのように感じられる程にしっとりしたその髪は、指に吸い付くように纏わり、そして離れ落ちた。何かに追い縋るようで、しかし退けられるような切なさを、幾度か繰り返す。
「あいつもきっと、俺と同じ気持ちだったんですよね」
 髪を梳く指を、止める。まるで宝石みたいに澄んだ瞳が、しっかりとした後悔の念を焼き付けて、こちらを覗いていた。
「あいつだってただ、宮地さんの事が好きで、好きで、だからこうして。でも俺はそれが許せなくて」
 伏し目がちになった彼の長い下睫毛に、場違いな程美しい水分が震えている。それはきっと、何かの拍子に流れ出したら、美しい翡翠色の涙なのだろうと思ってしまう程、耽美な光景だった。
 触れる事すら憚られるその瞳に、震える指先で触れれば、そこにある苦しさを共有するように、指先で涙を絡め取る。
「言ったろ? 俺はお前しか見てねぇって。あいつがどう思おうと、俺の気持ちは変わらない」
「責めてますか? こんな事になったってしまって」
 クロゼットの辺りに視線を遣り、無理矢理に引き剥がす。「彼」が壊れたのか、それとも緑間が、壊れていたのか。
「責めてねぇよ。って言ったら嘘になるか。まぁ、俺も同じ事、したかもしんねーし、お前の事だけ責めるってのは、ちげぇなって思うよ」
 伏せていた目を少し見開き、僅かに目尻を下げた事が、安堵を表現する事とイコールなのだろう。



【夜桜メロウ】

一 宮地清志

 花散らしの雨。
 朝から止む事なく降り続く雨に、壇上の大人たちはこぞって「お足元の悪い中」「生憎の空模様」の言葉を連ねる卒業式。
 三月下旬の雨はまだまだ冷たくて、それでも雨が降り止む毎に桜の枝先には薄紅色が膨らんで、今日もまたこの雨が止んだら、散らずに生を繋ぎ留めた花弁たちが、一気に花を開かせるのだろう。
 天気のせいだか知らないが、妙に湿っぽい雰囲気になったロッカールームから抜けだして、何の気なしに辿り着いた裏門。俺よりも少しばかり背の低い門柱の大理石が、雨に濡れて一段と艶を増している。
 ゆっくりとした足音。何の声も掛けずに近づいてくる辺、相手が誰であるかの予想は的中。振り向けば、いつもの明るい翡翠色の髪が、黒色の傘に遮られて深緑に染まる、緑間の姿があった。
「着いてきたのか」
「人聞きが悪い事を言わないで下さい。用事があって来たのだよ」
 ふ、と笑い、何だと問えば、彼はいつもの真剣な顔つきと然程変わらない態で、一度大きく瞬きをした。羽音が鳴るぐらいに、長い睫毛。一歩離れていても、音が聴こえてきそうな程。
「宮地さんは、どうだから知らないけれど、俺は、あの時から、宮地さんを、ずっと、好きだったんです」
 一言ずつ、静かに紡がれる言葉の尻尾に、浅く頷きながら「うん」答える。
「あの時、とは」
「夏の練習試合の日、テーピングを忘れた俺のために、ドラッグストアに走ってくれた。あれは運命だったのだよ」
 神妙な面持ちから繰り出される妙な展開に思わず吹き出せば、緑間の怪訝気な表情が痛く刺さる。
「あれは、あれだろ? ジャン負けしたから俺が走ってっただけで、だってあれ、俺じゃなかったかもしんねーじゃん」
「だから、運命だったと言っているのだよ」
 静かに、諭すような言い草に苦笑し、首をひねる。緑間らしい、そんな事を思いながら。
「あの日、俺のラッキーアイテムはドラッグストアだったんです」
「は? アイテムってか、あれ、店なんだけど」
 俺の茶々入れには目もくれずに続ける。
「でも、ドラッグストアなんて日頃用事はないですし」
「え、じゃぁお前、テーピングはどこで買ってんだよ」
「母が買ってきます」
「マザコン」
 再び訝しむ表情を見せる緑間は、眼鏡のブリッジに指をかけ、位置を直した。
「とにかく、運命の人に出会ってしまったのだよ」
 お前らしいや、今度は声に出し、足元にあった丸っこい石ころを蹴飛ばせば、奥にある用務員用の自転車にぶつかり、軽妙な音を立てた。静かに降り続く雨。傘から雨音を浴びつつ、緑間に向き直る。
 今日のラッキーアイテムは、なんて無粋な事を訊かずとも、予想は付いている。いつもは、きっと母親が選んだのであろう可愛らしいチェック模様の傘を差しているのに、今日に限っては、黒一色だ。
 ラッキーアイテムを持っているのに、悪いな、緑間。
「お互いが、もう少し責任のある大人になった時、もう一度会おう。きっとその時なら、お前を受け入れられると思うから」
 男だから受け入れられない、そんな理由ではなかった。ただ、互いが同性同士なら、きっと思わぬ障害が立ちはだかるに違いない。まだまだ未熟な俺達は、少なくとも俺は、それを乗り越えられる自信がなかった。きっと二人が大人になる頃には、互いに異性に惹かれるようになり、別々の道を歩むだろう。そう思えば、俺の本心というよりも、緑間の為、という押し付けがましい感情も綯交ぜになっていたかも知れない。
「大人になったら、ですか」
「あぁ」
「約束して下さい」
「ん」
 それから緑間は傘の位置を少し下げ、顔が半分隠れて見えなくなった。
「ラッキーアイテムを持ってきて良かったのだよ」
 そう言って、きゅっと上げた口角のすぐ側を、涙が一筋滑り落ち、雨の中に消えた。

     *

二 緑間真太郎

 原宿の裏通りにあるカフェに、とても美味しいエッグタルトを売る店があるという。妹が仕入れた情報に興味なさげな返答をすると、ぐい、と半袖のシャツを引かれた。
「原宿、行くの怖いな」
 妹は俺と違い、世渡りが上手い。親の前ではとことんまでに行儀の良い真面目な娘でいるけれど、部屋の中には下品とも言える服が並んでいる事を、親は知らない。
「お兄ちゃん、買ってきてくれない?」
 俺は妹に弱い。どんな男でもそうなのだ、妹には弱い。 「明日なら、教授が休みだから早く上がれるのだよ。任せておけ」

    *

 日頃、足を運ぶ事はまずない裏原宿など、俺にとっては鬼門のようなものだ。雑誌から抜けだしたような奇抜な服装をしている若者が闊歩する通りを、パッとしない服装の長身の男が歩けば目を引く。好奇の視線を浴びる事はある程度慣れてはいるものの、やはり一人では心許なかったし、何よりも、今日はラッキーアイテムを身につけていなかった。一眼レフカメラなど、昨日の今日で手に入れる事ができるものではない。
「あの、すいません」
 肩に掛けられた手に振り向けば、万人受けしそうな笑顔を垂れ流す男が一人。手元から一枚の名刺を取り出すと、俺の目の前に差し出した。
「モデル事務所のものでして。お兄さんもしかして、どこかでモデルとか、やってます? スタイルいいですもんね」
「いいえ、そういう事は特には」
 値踏みするように視線を上下させた男は、一冊の雑誌を小脇から取り出した。
「ここに写ってる彼の、相方を探していてね」
 確かにそこに写っている、真面目な顔をしていても軽薄さが滲み出るようなバカ面は、黄瀬涼太。間違いない、モデルを本職にしたという黄瀬涼太だ。
「こういう軽薄な仕事には興味が無いのだよ」
「いや、ちょっと待って下さい、君みたいにスタイルのいい子なかなか、えっと、宮地くん! ちょっと!」
 耳にした事のある苗字に刹那チクリと痛む胸を無視して、俺はその場を立ち去ろうと一歩踏み出した。その先に。
「あれ、緑間、じゃね?」
「宮地、さん......」
 出会ってしまったんだ。
 首から下がるのは間違いない、黒光りする一眼レフカメラ。これを運命と呼ばずして、何が運命か。
「すみません、その話、詳しく訊かせて下さい」
「あ、ほんと? じゃぁこの先のカフェにでも入って、話しようか」
 呆然とする宮地さんの前を会釈して通りぬけ、事務所の男についていくと、先ほどエッグタルトを購入したカフェに辿り着く。二度目の来店になる俺に、店員は訝しげな表情を見せた。