逆光ハレーション
【ゼロ距離ベンチレーション】

「俺医者じゃねーし、良く分かんねぇけど、そんなに腫れてないから捻挫はしてないんじゃねーか?」
 俺の足底を胸にぴたっと付けながら、足首の辺に巻いた真っ白いテーピングをぐっと引っ張った。じわり、と痛みはあるけれど、捻ったその瞬間ほどのものではなく、安堵する。
「すいません、お手数をかけてしまって」
「いいんだよ。俺テーピングうまいし」
 土踏まずから足首の上までしっかりと固定したテーピングの上から、剥がれないように更にもう一重、巻きつけた。指先でぐっと力を込めて、テーピングの端を切り落とす。
「お前、これ出来ないだろ」
「ええ、左の指先でテーピングを切るなんて言語道断なのだよ。鋏があるじゃないですか」
「こっちのが、早ぇんだって」
 端をぐいっと伸ばし、くるぶしの当たりに留めた。
 それから宮地さんは、どこか満足気な表情で俺の足をテーピング越しに撫で回す。湿布の冷たさに侵食される足首と、宮地さんの手の平の温度で、足先は混乱する。
「何を、しているのですか」
「ん、お前の足って、綺麗な形してるなぁって思って」
 足先にすっと顔を寄せた刹那、薄く開いた桜色の唇の隙間に、俺の足の指がすっと吸い込まれていった。
「ちょ、宮地さん! 何を、何をしているのですか!」
 俺の問いになんて答えずに、足の親指を口に含み、裏側に舌を這わせている。彼の手の平の温度とは比べ物にならない熱感が指先から這い上がり、俺の身体の一部もぐっと、熱さを増していく。
「み、宮地さん--」
 大袈裟な程に唾液を絡め、猥雑な音を立てるそこからは、足の甲に向かって彼の唾液が流れ始めた。
 一旦口を離した隙に足を引っ込めようと試みたが、随分と強い力で固定された足は、容易に動かない。
 親指と人差し指をくいっと広げ、その間に彼の赤い舌が踊る。舐め取られ、吸い取られ、その都度じゅぽ、と鼓膜をしびれさせる音がする。
「宮地さん、もう、やめて」
「んふぁ?」
 上目で見つめる飴色の瞳はじっとり濡れて、紅潮する頬はまるで化粧を施した女のようで。

【秋風は空に舞い】


 いつも通りの朝陽がのぼり、いつも通りの一日が始まる。
 ベッドから片足を下ろすと少しひんやりとしたフローリングは心地よく、まだ残暑の尻尾が見えている空気を大きく吸い込み、伸びをする。
 十月という季節の空気は、どこか切なく、寂しい匂いがする。

 階下から香るのは、焼いたベーコンの匂い。親を相次いで亡くした俺と姉は、二人には少し広く感じるこの家で、協力しながら生命を繋いでいる。
 香ばしい香りに誘われるように鼻歌交じり、階段を降りれば、目の前に飛び込むのはオープンキッチン。
 そこにあるはずの、姉の姿はなかった。
 カウンターに置かれたベーコンエッグはまだ、白い湯気を立てている。古いトースターから軽妙な音が鳴り、食パンが飛び出した。ベーコンエッグに負けじと湯気を立てるマグカップを重石に、一枚のメモ用紙が挟み込まれている。
 よく見慣れた、姉の文字だった。

 清志

 姉ちゃんの腕にもとうとう、赤いのが出来てきた。
 清志に伝染ってたらごめんね。
 というわけで姉ちゃんは収容所に行きます。
 パパとママがいなくなってから姉ちゃんの心の支えは、 清志でした。
 パパとママと、先に行っています。

 強く生きてね。大好きだよ。

 姉ちゃんより


 水性のボールペンは水滴でじわりと滲み、あ、涙が出ている、そう気づく。余りに無意識に零れ出た涙はあっという間に、蛇口が壊れた水道みたいに止めどなく流れ始めた。カウンターにしがみつき、崩れ落ちそうな身体を支える。
 しかし姉が作った暖かな朝御飯はこれで最期なのだと思うと、湯気が出ている暖かいうちに食べてしまおうと、震える腕で皿をテーブルへと運んだ。

 病原体のウイルスが特定された頃にはもう、日本の人口の多くが既に、そのウイルスに侵された後だった。研究施設の人員は揃わず、研究資材を運ぶ手段も途絶えるなどで抗ウイルス剤は開発すらされず、空気感染するウイルスにされるがまま、為す術ががないまま日本は、滅びようとしている。
 その感染力は凄まじく、発疹は体内の粘膜をも侵すため、同室で一つ咳をしただけでも、周囲に伝染るほど。そのため、感染の第一兆候である二の腕内側の発疹が出た時点で、感染者は「収容所」と呼ばれる隔離施設に移動し、一生を終える。家族の最期を看取ることができるのは、同じ時期に感染し、収容された者だけ。

 俺も、感染しているかもしれない。いや、まだかもしれない。
 いつしか訪れるであろう「死」と「孤独」は、ついそこで足音を止めた。

 政財界の人間や芸能人、有名人に優先的に配られるガスマスクには大きな効果はないようで、つい一週間前、テレビ番組が終了した。スタッフも、演者も、被害が大きいのだろう。しかし、通信電波は未だ途絶えること無く、スマートフォンだって使うことができる。幸か不幸か、世界各地で続々と被害が広がっている、なんていうネットニュースが目に入ってしまうのだが。

 あいつらは、どうしているだろうか。